樋口尚文の千夜千本 第37夜「この国の空」(荒井晴彦監督)
戦争は青春の発情をとめることはできない
松本清張に「球形の荒野」という小説があって映画化もされたし、幾度もテレビドラマ化されているが、いつもながらの題名の妙にそそられつつ、ちょっと感情移入のとっかかりを見つけ難い作品ではある。第二次大戦下で隠密裡に和平工作に奔走した外交官が、戦後、国粋主義的な一党の峻烈な憎悪を買って命を狙われ、別人を装って世界を放浪する。これは面白くないというよりも、あまりに突飛で話のでかい設定の先に父と娘のメロドラマが接合され、なかなか映画上のリアリティや共感点を導き難い感じであった。
ところが、いくつかのドラマ版のうち、1978年にフジテレビにて河村雄太郎演出で制作されたバージョンを観ていたら、主演の栗原小巻が突然茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」をえんえんと諳んじる場面があって、もちろん原作にもそんな箇所はなかったはずなので、ああ作者はこの思いつきをどうしてもやりたかったのだなと感じ入った。そこまではなんとなく退屈なドラマだったが、それだけで一発逆転、すべてオーケーという気にさせるアイディアだった。教科書などでも広く親しまれている詩だが、そんなわけでこれは理屈抜きに「必殺」の作品なのである。
そして荒井晴彦の第二回監督作品『この国の空』でも、不意に引用される「わたしが一番きれいだったとき」が極めて重要な役割を担っている。太平洋戦争の開戦から終戦までを十五歳から十九歳にかけて経験した作者によるこの詩のとりわけ印象的なところは、戦争が自分の「おしゃれのきっかけ」や「やさしい贈り物」を全部奪ってしまったという、いかにもティーンエージャーらしいささやかな夢や希望と対峙するものとして、手もとの肌感覚で描かれているということだ。そして、『この国の空』という映画の基調もまさにそこにあるのだった。
ここには怒りに硬直した握りこぶしのような表現は見られない。ただひたすらに二階堂ふみと工藤夕貴の母娘が、淡々と働き、なるべくいいものを食べるように工夫して食事をして眠る、その静かな日常が点描されるだけである。警戒警報や防空壕への避難は、むしろその日常の一部として表現される。戦時中の窮乏の描写としてしばしば映画では何も食膳にのっていないような状態が紋切型的に映されがちだが、本作では思いのほか母娘がまともな食事をしようとしているところがよかった(正確に言えば、せいいっぱいまともな水準を保とうとしている、ということなのかもしれないが)。とにかく生きてゆくには食べなくてはならないから、本作ではこうして飯を食うという行為がドラマの軸にさえなっているだろう。空襲で焼け出された富田靖子の伯母に工藤夕貴がかなり厳しく接するのも、ひたすら食にまつわるしがない事情からであり、物語中盤の若干の起伏も配給が減って農家に着物と食糧を引き換えてもらいに行く(見た目にはごく穏やかな、まるでピクニックのようでもある)場面によってもたらされる。
戦時下であろうと、なるべくいいものを食べたいのが人間だし、そんな営みと何ら変わらず、いかに非国民の謗りを受けようと、普通に恋だのなんだのをしたいと思うのも人間だ。だから男は雨音にまぎれさせて夜中にバイオリンも弾くし、女は召集で近所に男のけはいがなくなったら、丙種の不名誉に喜んで甘んじている隣家の所帯持ちのおっさんでもいいからからだを捧げる。したいものはしたいのだ。最近亡くなったばかりの長田弘氏が、自らのテーマは欧米で言うところのパトリオティズム(日常愛)でああるが、それは愛国心的なナショナリズムとは全く違う、パトリオティズムは宏量だがナショナリズムは狭量だ、と言っていたのが心に残った。その日常愛とは「生活様式への愛着」であり、戦争や災害で日常が破壊された時、人は失ったものに気づく、平和とは「日常を取り戻すこと」である、と。
だが、『この国の空』の戦時下にあっては、本能的に自然に惹かれあう二階堂ふみと長谷川博己を、あんたたちそんなことしていて恥ずかしくないのかと神社のおばさんが恫喝する。このおばさんは本気でそう思っているのか。ともかくこういう建前を本音と混同するたちの悪い連中がナンセンスな戦争をその気になって支えていることはよくわかる。ひじょうに迷惑な輩である。これに対して、同じ銃後の婦人でも工藤夕貴扮する母親は、事態のばかばかしさへの違和を建前でやり過ごしながら、一貫して本音でしかものを見ていない。空襲で命を奪われたり本土決戦で犬死にさせられる前に、娘にはぜひ人並みに男を知り、女の幸福を味わってほしいと願っている。女ばかりの心細い所帯だが、母も娘も女性ならではの肝の据わったパトリオティズムで共闘する日々である。あたりまえにしたいことをして何か悪いんですか、という戦いが、「あ、よそから見えるわ」と見えざる窓外の悪意なまなざしへの灯火管制を敷きながら、静かに静かに続く。
楚々と役場で働いてストイックに暮らしているかに見えた二階堂ふみが、白昼の長谷川博己との逢瀬をいいところで邪魔されて、ほてる心身をもてあまし悶々とする夜半の描写がとてもいい。そんな時間に窓辺からトマトを差し出して今食べろと長谷川に強要するところも凄くいい。あそこにはもたもたせず処女の私も食べやがれと、(おぼこなのに)本能の命ずるまま虚ろにどついている感じがよかった。これに先立って、二階堂ふみは仕事に出かけた長谷川の寝床に掃除かたがた侵入するが、頭の皮脂の汚れですっかり黒ずんだ枕に顔を埋めてうっとりしたりする。あ、これは荒井脚本、神代辰巳監督の傑作『赫い髪の女』で宮下順子が留守中の石橋蓮司のパンツを頭からかぶって匂いに耽溺しているアレだ、荒井ズムのスイッチが入ったな!という気がしたのだが、そんな事を経て、「その夜」が更けゆくにつれ二階堂ふみが全身で発情するじたばたぶりが本当に素晴らしい。それこそ神代辰巳のヒロインたち、宮下順子も芹明香も桃井かおりもそうであったように、畳のうえをごろごろと転がって、からだを持て余すさまが、まさか二階堂ふみによって再演されようとは・・・しかもそれが二階堂ふみにこんなにも似合っていようとは。
この全身で悶々とムラムラしてみせる二階堂ふみの動物的な肢体のアクションは、本作が言わず語らずして訴えるパトリオティズム、日常なるものののかけがえなさを、天才的にかたちにして見せてくれたのであった。そして逆説的だがこの戦時下ゆえに許された二階堂と長谷川の密かな逢瀬が、皮肉にも終戦による疎開先からの家族の帰還で阻まれる時、彼女は来るべき「戦争」に向けてうかない貌を見せる。もっとも彼女がうかないのは、事態の変化を憂えているというよりも、自分の気持ちが「撤退不能」であることに自分でうんざりしているからかもしれない。ああ、戦争も終わるというのに、自分はある意味戦時を背負って、これからあれこれしでかしてしまうのだろうなあと。そんな二階堂ふみの表情ストップモーションににじり寄っていく長いズームは、そこにひそむ憂鬱と躊躇と決然たる闘志の複雑きわまりない交錯を微分するかのようである。