二刀流の大谷翔平。ダブル・デューティーと呼ばれたラドクリフ。
昔、ダブル・デューティー・ラドクリフという野球選手がいた。
本名はセオドア・ルーズベルト・ラドクリフ。1902年、米国アラバマ州モービル生まれ。少年時代は、近所の仲間たちと野球遊びをして過ごした。
ラドクリフの野球遊びの仲間には、その後の球史に絡む人たちが何人かいた。
野球史上屈指の好投手といわれるサチェル・ペイジ。ベーブ・ルースの持つメジャー通算本塁打記録を更新したハンク・アーロンの父、野球殿堂入り選手のウィリー・マッコビーの父や、シト・ガストンの父。豪華なメンバーである。
少年ラドクリフは、ペイジの球を受けるキャッチャーだった。モービルの野球仲間うちで、ペイジの球を最もうまく捕球できたからだ。
ラドクリフは十代の終わり、職を求めてシカゴに移り、いくつかの野球チームに参加した。そして、能力を買われて、ニグロ・リーグでプレーするようになった。ラドクリフは黒人である。
ラドクリフがニグロ・リーグの球団に入ったのは1920年代後半の話。当時、黒人選手は肌の色が違うという理由で、メジャーリーグでプレーすることができなかった。そこで、黒人選手らがプレーするニグロ・リーグを独自につくり、興行をしていたのだ。
ラドクリフは、ニグロ・リーグでも、キャッチングのうまさと強肩で評価されるようになった。身長は173センチメートルで大きくはないが、がっしりとした体つき。二塁打を量産するような選手だったという。
ニグロ・リーグは低予算の球団が多かった。メジャーリーグは1914年に25人ロースターになったが、ニグロ・リーグは選手にかかる人件費を抑えるために20人足らずの選手でチーム編成したらしい。ラドクリフ自身も、14人乗りの車両にチーム全員が乗り込み、街から街へと移動したと述懐している。(ニグロ・リーグには公式記録が残っていないものが多い。低予算のために公式記録員を雇えなかったからかもしれない)
14-15人しか選手がいないのであれば、複数のポジションをこなせる選手は貴重な存在になる。
ラドクリフはキャッチャーをし、打席に立ち、そしてマウンドにも立った。ちょっと投げてみたところ、「投げられるじゃないか」という話になったようだ。試合開始から終盤まで捕手をし、チームがリードしていると抑え投手としてマウンドに上がった。それがチームの勝ちパターンのひとつだった。
1932年のある日、ラドクリフはダブルヘッダーの第1試合は捕手で出場、第2試合は投手で出場。その様子を見た新聞記者が「ダブル・デューティー」というニックネームをつけた。「デューティー」は、務め、義務、役目といった意味。「ダブル・デューティー」は「2つの任務」、「2役をこなす」ことを表していた。
ラドクリフはこの愛称をとても気に入った。それ以降は、第26代大統領のセオドア・ルーズベルトにちなんだ本名ではなく、ダブル・デューティー・ラドクリフを通称として使い続けた。
ニグロ・リーグにはラドクリフの他にも、優れた二刀流やスーパーマルチ選手がいた。
強豪球団カンザスシティ・モナークスの中心選手だったブレット・ローガン。長年、投打にわたり活躍したが、1924年は、投げては18勝6敗、打っては打率3割9分5厘を記録。キューバ出身のマーティン・ディーゴはスーパーマルチ選手。レオン・デイは主に投手をしながら、二塁と外野の守備をこなし、打撃も得意だったという。この3選手は野球殿堂入りも果たしている。
ラドクリフは、ニグロ・リーグ時代のジャッキー・ロビンソンとルームメートだったことがある。
1947年、ジャッキー・ロビンソンは人種の壁を破り、1900年代以降のメジャーでは初の黒人選手となった。ラドクリフはメジャーと契約できるほど若くはなかったが、自身の子ども世代にあたるハンク・アーロン、ウィリー・メイズらは、ニグロ・リーグを経て、メジャー史上に残る大活躍をした。
ジャッキー・ロビンソンと彼に続いた黒人選手たちは、人種の壁を破った。けれども、ニグロ・リーグの野球スタイルは断ち切られたようである。彼らの先輩には、前述したように優れた二刀流選手がいたが、メジャーリーグに二刀流の概念を持ち込むことはできなかった。
ベーブ・ルースが打者に専念して以降、メジャーでは二刀流は難しいという考えが定着していたのだろう。それに、出場ロースターに25人の選手を並べられるメジャーと、やりくり必死のニグロ・リーグとでは事情も異なる。(1880年代はメジャーリーグでも、ロースターが13人、14人という時代があり、このときには二刀流やマルチ選手が誕生していた。投手でも、「打てないから」という理由でクビになった)
メジャーに黒人選手が増えるのと反比例して、ニグロ・リーグは衰退し、1960年代はじめに消滅した。
エンゼルスの大谷は、二刀流で米国へ乗り込み、メジャーリーグの常識を今、破壊している。すでにサイ・ヤング賞(最優秀投手)であるインディアンスのクルーバーから本塁打を打ち、MVPのアストロズのアルトゥーベから三振を奪った。
そういえば、ラドクリフにも同じような自慢話がある。「Double Duty Radcliffe 36 Years of Pitching & Catching in the Negro Leagues」という書籍から紹介したい。
「サチェル・ペイジは野球史で最も優れた投手。ジョシュ・ギブソンは野球史で最も優れた打者だ。俺はペイジからホームランを打ち、ギブソンから三振を奪った野球史でただ一人の選手だ」。子ども時代の話ではなく、ニグロ・リーグでの話である。
ダブル・デューティー・ラドクリフは103歳まで生き、2005年に亡くなった。メジャーリーグのこれまでの考えを大きく揺るがしている大谷を、ラドクリフはどのように見ているのだろうか。私はそれが知りたくてたまらない。