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豊臣秀吉の人質になった徳川家康の子・義伊(結城秀康)は、梅毒で死んだ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
福井城跡の結城秀康像。(写真:イメージマート)

 前回の「どうする家康」では、徳川家康の子・義伊(のちの結城秀康)が豊臣秀吉の人質になった。秀康とはいかなる人物なのか、詳しく考えることにしよう。

 天正2年(1574)2月、秀康は家康の次男として誕生した。母のお万の方は、家康のお手付きだったと言われており、正室の瀬名(築山殿)から追放された。

 一説によると、お万の方は素っ裸にされ、木に括りつけられたという。徳川家康は、後継者たるべき嫡男として信康がいた。なお、お万の方の父の永見吉英は由緒のわからない人物だった。

 天正7年(1579)9月、家康は武田氏に擦り寄ろうとする信康を自らの判断で斬った。信康の死後、次の後継候補となったのは次男の秀康だったが、家康は秀康を嫌っていたという。

 一説によると、秀康は双子だったといわれている。当時は迷信を信じる人が多く、双子は「畜生腹」といわれ、歓迎されていなかったのである。

 そういうのも家康が秀康を遠ざけた理由であるといわれているが、俗説にすぎないだろう。それゆえ、秀康は3歳になるまで家康と対面を果たせなかったという。

 とはいえ、この話が本当なのか否かは、決して明らかではないが、創作臭がなきにしもあらずということになろう。

 そのような事情もあったのか、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い後、家康は秀吉に和睦の証として秀康を養子として送り込んだ。その後、秀康は九州征伐で軍功を挙げたので、豊臣姓を下賜された。

 このように秀康は栄達を遂げたが、天正18年(1590)に下総結城氏の養子となった。つまり、秀康は最初から家康の後継者とみなされていなかった可能性がある。徳川家を継いだのは、弟の秀忠だった。

 慶長12年閏4月8日、結城秀康が病没した。秀康の死因は、唐瘡(梅毒)だったという。前年の時点で、秀康は腫物に悩まされており、その病状はかなり深刻だったといわれている。

 もはや、天皇家からの使者をもてなすことができないほど、病状が悪化していたという。後述のとおり、『医学天正記』によると、秀康の直接の死因は梅毒だけでなく、合併症によるものであるという。

 3人の医者が投薬をしたが、病状は好転しなかったという。『医学天正期』によると、秀康は「瀉利(しゃり:げり)・発熱・咽渇(喉の渇き)・五令ニ加滑」などの症状があったという。

 なお、秀康の死に際しては、家臣が殉死したが、土屋左馬助と永見右衛門は男色の関係にあったので追腹に至ったという。

 とはいえ、秀康の武将としての器量は、当時から高く評価されていたと伝わっている。今後、秀康がいかなる場面で登場するのか、今から楽しみでもある。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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