【戦国こぼれ話】江戸幕府が制定した「一国一城令」「武家諸法度」は、諸大名が恐れる厳しい法令だった
朝乃山が日本相撲協会の規定に違反したので、処分を科されるという。ところで、江戸時代には「一国一城令」「武家諸法度」が制定され、違反者は厳しく処罰された。「一国一城令」「武家諸法度」とは、どのような法令なのだろうか。
■時代背景
慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、徳川家康の率いる東軍が圧勝し、敗れた西軍の諸将の中には厳しい処分を受ける者もいた。
このように家康が戦勝者となり、大名を処分しうる立場になったことは、必然的に豊臣秀頼の地位低下を意味した。慶長8年(1603)、家康は念願の征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いた。
家康は慶長20年(1615)の大坂の陣で豊臣家を滅ぼすと、名実ともに天下を掌握し、大名対策に力を入れた。そして、大名統制を意図して制定されたのが、「武家諸法度」なのである。
家康が全国統治権を行使する中で、大名統制を積極的に行うことは必然の帰結であった。のちに「徳川三百年」とはいうものの、江戸幕府開幕直後はまだ安泰と言いうるような状況ではなかった。そのため家康にとって、関係する法の制定と整備・運用が喫緊の課題だったのである。
■改易となった前田茂勝
次に、関ヶ原合戦後、改易された前田茂勝の事例を確認することにしよう。
前田茂勝は玄以の子で、関ヶ原合戦では西軍に味方した。しかし、父の玄以が朝廷との太いパイプを持っていたことや、実際には彼らが東軍と交戦して被害を受けなかったことが考慮され、処分を免れた。
そして、玄以の没後、茂勝は家督を継承し、丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)を拠点とする大名に取り立てられたのである。
コンスタンチノの洗礼名を持つ茂勝は、熱心なキリスト教徒だった。それゆえに、禁教政策を推進していた幕府からは、危険視されていたといわれている。そのようなことが影響したのか、茂勝の行動は異常さを増すところとなった。
茂勝は内政を蔑ろにし、京都で乱行・放蕩三昧の生活を送ったという。当主としては、あるまじき行為であった。事態を憂慮した家臣・尾池清左衛門父子は、茂勝に諫言するが、これは聞き入れられなかった。それどころか、茂勝は尾池以下の家臣に切腹を命じるなど、極めて理不尽な処分を下したのである。
この状況を幕府が見逃すわけがなかった。慶長13年(1608)、茂勝は幕府から改易を申し渡され、所領を没収された。そして、甥である出雲国松江(島根県松江市)の堀尾忠晴に茂勝は預けられたのだ。のちに茂勝は悔い改め、クリスチャンとして真面目な生活を送ったという。
この事例は、「当主乱行」から執り行われた改易として知られるものである。ただし、必ずしも法的根拠があったわけではなく、改易の取り決めについては、「一国一城令」や「武家諸法度」の制定を待たねばならなかった。
■「一国一城令」の制定
大名統制の第一弾となる法令が、元和元年(1615)閏6月に制定された「一国一城令」である。豊臣家滅亡直後という、格好のタイミングであった。
「一国一城令」とは、その名が示すとおり1つの領国に1つの城しか認めない法である。したがって、本城を除く支城は、すべて破却が命じられた。この法令は、必然的に各大名の戦力を削減し、戦闘意欲を削ぐものとなった。福島正則はこの法令を破り、無断で広島城を改修したので改易された。こちら。
■「武家諸法度」の制定
「一国一城令」制定の翌月に発布されたのが、「武家諸法度」である(元和令)。「武家諸法度」は金地院崇伝が家康の命を受けて起草したもので、2代将軍秀忠の名前で発布された。その内容で重要なのは、①城郭修理の禁止、②徒党の禁止、③婚姻の許可制、④参勤作法、⑤大名の国政、であった。
こうして幕府では武家法の体系を整え、以後、何度かの改定を行って精度を高めた。そして、違反者に対しては、厳しい処分をもって臨んだのである。これまでも後継者の不在、御家騒動等によって改易される例があったが、これによって法的根拠が整ったといえよう。
寛永12年(1635)、「武家諸法度」は3代将軍家光の代に大幅に改正され、より具体的な内容になった。なかでも、大名の参勤交代が制度化されたのは注目される。その後もたびたび改正が続けられ、完成度を増していったのである。
「一国一城令」や「武家諸法度」の制定後、幕府は違反者を次々と罰したのである。