【戦国こぼれ話】広島城主・福島正則は、なぜ改易処分を受けて、悲劇的な最期を迎えたのだろうか
コロナの影響によって、広島城が6月1日まで休館とのこと。非常に残念である。広島城と言えば福島正則だが、なぜ改易処分を受けて、悲惨な最期を迎えたのか考えてみよう。
■福島正則とは
永禄4年(1561)、福島正則は正信の長男として、尾張国海東郡(愛知県あま市)に誕生した。幼名は市松。のちに左衛門大夫と呼ばれた。母が豊臣秀吉の伯母・木下氏の出身だったので、羽柴(豊臣)秀吉とは非常に近い関係にあり、大変かわいがられた。
天正6年(1578)以降、正則は秀吉の配下として各地を転戦し、大いに軍功を挙げた。同10年(1582)の備中高松城の戦いに出陣し、同11年(1583)4月の賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳の七本槍(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)」の1人として、その名を天下に轟かせた。
天正13年(1585)、正則は伊予今治に10万石を与えられると、九州征伐、小田原征伐にも出陣した。文禄4年(1595)には尾張清洲に移り、24万石を領している。
■関ヶ原合戦と正則
慶長3年(1598)に秀吉が亡くなり、翌年に前田利家が病没すると、正則ら「反三成派」の怒りは爆発する。それが、七将による「石田三成訴訟事件」である。この事件により、三成は近江・佐和山城への蟄居を余儀なくされた。こうして正則ら豊臣恩顧の諸大名は、家康に急接近したのである。
慶長5年(1600)、上杉景勝が上洛の要請を拒否したため、家康は会津征伐を決意する。同年7月、下野国小山(栃木県小山市)で三成の決起を知った家康は、小山評定を催した。
このとき正則は、評定の席上で率先して家康の味方をすると発言したというが、今では疑問視されている。しかし、正則が家康与党であり、先鋒として西上したのは事実である。つまり、正則は家康にとって、功労第一の人物といえる。
同年9月15日の関ヶ原合戦において、正則は先鋒の第一番手として、西軍の主力部隊である宇喜多秀家の軍勢と交戦し、散々に打ち破るなど、東軍の勝利に貢献した。
戦後、正則は一連の軍功を称えられ、毛利氏の居城・広島城を与えられた。そして、安芸・備後2ヵ国に49万8000石を知行したのだ。知行高が倍増したのは、それだけ正則の貢献度が高かったからだ。
関ヶ原合戦後も、正則は豊臣家から受けた恩を忘れず、大坂城の豊臣秀頼に対して忠誠を尽くした。こうした行動は、家康の警戒心を煽った。ところが、その間には加藤清正、浅野幸長らかつての盟友が相次いで亡くなり、正則の影響力は徐々に低下していったと考えられる。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発するが、正則は家康から江戸屋敷に留め置かれ、代わりに子の忠勝が出陣した。正則は豊臣家の恩顧が忘れられず、豊臣方が正則の大坂屋敷から蔵米8万石を接収するのを黙認したという。家康の強い警戒心は、完全に解かれていなかったのである。
■改易された正則
このような正則に隙があったのは事実である。元和5年(1619)に正則が上洛しようとする直前、その前年から広島城を改修していた事実が幕府に伝わった。城郭の改修には事前の許可が必要であり、「武家諸法度」に反した行為である。
この事実を聞き及んだ秀忠は、広島城の本丸以外(二の丸、三の丸、惣構え)をすべて破却することで、いったんは赦免しようと考えた。安堵に胸を撫で下ろした正則は、早速指示に従うことにした。しかし、正則が行ったのは、本丸の壁を取り、土や石を取り除くという簡単なものであった。
正則としては、こうした行為が幕府に対する「降参」の意であり、処分を形式的なものと軽く受け流した様子がある。しかし、この一報を耳にした秀忠は破却が不十分であるとして、直ちに正則の領国(安芸・備後)を没収したのである。晴天の霹靂とは、まさしくこのことであろう。
その後、正則は信濃国(高井郡)・越後国(魚沼郡)に移され、自らは子の忠勝に家督を譲り蟄居した。翌年、忠勝が早世すると、2万5000石を返上した。そして、寛永元年(1624)に正則が亡くなると、幕府検使が到着する前に、遺骸は荼毘に付された。そのため残りの2万石も取り上げられ、正則の子正利は3000石の旗本にまで身分を落としたのである。