【高校野球】かつて父が甲子園で付けた背番号7で同じ舞台へ 補聴器装着する八戸工大一・吉田、快音誓う
第106回全国高校野球選手権青森大会が明日9日、開幕する。第3シードの八戸工大一は2年連続で決勝に進出しているが、いずれも八戸学院光星に1点差で敗戦。2010年夏以来となる甲子園に懸ける気持ちは強い。中でも、春の県大会で4番に座った吉田幸輝外野手(3年)は、OBの父・和幸さんが1998年夏の甲子園に出場しており、小学生の頃から“八戸工大一での甲子園出場”を夢見てきた選手だ。難聴のため、両耳に補聴器を付けながら「ワクワクさせてくれるもの」という野球に打ち込んできた。父と同じ舞台に立つため、「1打席、1球に集中してチームに貢献したい」と意気込む。
■原点のランニングホームラン
5試合を戦った春の県大会で吉田の打撃成績は14打数3安打。3位決定戦を除く4試合は4番として出場したが、「チームに貢献できなかったので」と当然、この結果に納得はいっていない。
「夏は打ちたいですね」と話を振ると、「甲子園に行くので。甲子園に行くために打ちたいです」と力強い言葉が返ってきた。甲子園は小学生の頃から目指してきた場所だ。
サッカーから転向し、少年野球チーム「桔梗野バイオレッツ」に入ったのは八戸市立桔梗野小3年の時。原点の一打がある。入団して2、3ヶ月くらいで左中間を破る打球を放った。小学校の校庭をボールが転々とする。ダイヤモンドを駆け、三塁も回った。ーーランニングホームラン。「初めて打てて、泣きながら走ったんです」。ただ…、「見逃してくれたんですけど、ベースの踏み忘れもあって(笑)」という微笑ましいオチも付く忘れられない一打。どんどん野球にのめり込んでいった。
甲子園を目指してきた理由は、父・和幸さんがプレーした舞台だから。直接は伝えたことがないが、「親子で甲子園」は野球を始めてから意識してきたことだ。“松坂世代”の和幸さんは1998年夏、八戸工大一が4度目の甲子園出場を果たした時の左翼手。1回戦では鹿児島実と対戦し…、とくれば、高校野球ファンにはピンとくるかもしれない。相手のエースは左腕・杉内俊哉(現巨人投手チーフコーチ)。チームは16三振を奪われ、ノーヒットノーランを喫して0-4で敗れた。三振1つとセカンドゴロ2つに抑えられた和幸さんは「見たことがない球で当てるのが精一杯でしたね」と懐古する。
■父は別の高校を勧めた
吉田は投手を中心にどのポジションもユーティリティーに守って野球に没頭してきた。中日、横浜、日本ハムの3球団で330試合に登板した難聴のプロ野球選手、石井裕也さん(2018年に引退)の存在も励みにし、小学生の時は八戸市選抜や青森県選抜でもプレー。県の陸上大会では100メートルで入賞した。市川中でもその力を発揮し、高校は父の母校・八戸工大一へ――。だが、和幸さんが勧めたのは別の高校だった。
「私が八戸工大一高を卒業していて大変なのも分かっていますし、耳の方も気になっていて。部員数も多い中、指導者や周りの声が聞こえなかったら、と思うと」
吉田は両耳に補聴器を付けている。中等度難聴と診断されたのは3歳の頃。幼少期は月に1回程度、岩手県盛岡市の病院に通い、トレーニングを受けていた。幼稚園の年長は聾学校に通ったが、小、中学校は地域の通常学級で学んできた。「ちょっと小さいけど、音は聞こえます。でも、言葉がはっきりと分からないこともあります」と吉田。スピーカーなど機械から流れる音も聞き取りにくい。コミュニケーションには相手の口の動きを読み取ることが重要で、コロナ禍でマスク生活の時は「口の動きを見られないので、会話ができない時もありました」という。小、中学生の頃は聴力が落ち、補聴器を付けてもまったく聞こえない時期もあり、その都度、運動は控えることに。高校進学に当たり、「それも怖かったんですよ」と和幸さんは言う。
吉田も迷ったが、最終的には八戸工大一を選んだ。背中を押したのは長谷川菊雄監督の「親子で甲子園の夢を達成できるのはここしかない」という言葉。同時に、小学生の頃からの目標を再認識した。
■新基準バットで本塁打
「この選手、ちょっと期待してください。思い切りが良く、当たれば、プロ並みの打球です。あんまり、当たらないんですけど(笑)」
この秋のドラフト候補であり、4月のU-18日本代表候補強化合宿に招集された金渕光希投手(3年)の取材をお願いし、八戸工大一のグラウンドを訪ねたのは5月のこと。長谷川監督に野手についても話を伺っていた時に出てきた「この選手」が吉田だった。
反発力を抑えた新基準バットをものともせず、2年生まで1本だったホームランを3月の練習試合解禁から3本放った。迎えた春の県大会では3安打だったが、そのうちの1本が3回戦での2ラン。変化球に対してしっかりとバットを振り抜いた公式戦初アーチだった。
「打った瞬間に歓声で盛り上がっているのが聞こえて、打ったんだという実感が湧きました」
球場の雰囲気を耳で感じ取った。小学生の頃は頭部死球の危険があるため、打席では補聴器を外していたという。預かっていた和幸さんは「今、考えれば、聞こえない状態でよくやっていたなと思います。その分、目で判断していたので見て覚える子で、上手い子を真似して吸収していました」。5、6年生の時には監督、それまではコーチとして一緒にベンチに入っていた。中学からは攻撃でも補聴器を着用してプレーしてきた。
高校には外野手として入部。守備では「常に周りを見ながら、1球1球、外野同士やベンチとアイコンタクトをとるようにしています」と工夫しながらこなしてきた。小、中学生の頃はまったく聞こえなくなる時期もあったが、高校では不思議となく、ここまで高校野球に打ち込んでくることができた。「横のつながりが自分たちの強み。しんどい時もみんながいたから前を見てやってこられました」という仲間と出会い、「耳のことで特別扱いされるのが苦手なので、そういうのがなかったことがよかったです」と感謝する。
工業科電気コースのクラスメートでもある金渕は「性格が優しく、ちょっと天然なところもあって、いじられるキャラなんですよ」と教えてくれた。吉田の持ち味は打撃。「ヒットが出ない時もあるんですけど、チャンスで打ってくれるので、ピッチャーとして有り難いなと思います」と金渕。長谷川監督も「前はブンブン振り回していましたが、一冬越して技術が上がり、ミスショットが少なくなってきました。ランナーがたまったところで返してほしいですね」と期待する。そして、春の県大会では力を出しきれなかったが、「夏本番にとっていると思いますので!」とも。
■背番号は父と同じ「7」
甲子園。八戸工大一にとって、そこは今、近づきながらも届かない遠い場所になっている。
2年前の夏は3回戦で延長10回サヨナラ勝ちし、準々決勝は不戦勝。準決勝では県内の公式戦で11連勝していた青森山田を下し、12年ぶりとなる決勝に進出した。光星との頂上決戦は5-6で敗れたのだが、6回を終えて0-6とリードを許しながらも7回に1点を返し、8、9回には長打攻勢で1点差に迫る追い上げを見せたのだった。
昨夏も決勝に駒を進め、相手はまたもや光星。取られても追いつき、2-2で延長10回のタイブレークに突入。表に失った1点が重く、2-3で敗れた。
2年連続で王手をかけながら、1点差のあと一歩――。
大会はまたフラットな状態から始まる。シードの八戸工大一の初戦は13日。青森北と青森の勝者と対戦する。
「どこが相手でも自分たちの野球をやること。自分はバッティングで入っていますが、三振が多いので、ヒットの確率を上げたい。1打席、1球に集中してチームに貢献したいと思います」
そう話す吉田の背番号は「7」。26年前、父が背負った八戸工大一の「7」だ。
同じ背番号、同じポジションで同じ景色を見ることができるか。
■お父さんに「ありがとう」
吉田にとって野球は「自分をワクワクさせてくれるもの」だという。
「うまくいかないことがあると挫けそうになって、苦しい時はあるんですけど、野球は自分が好きなものなので。結果が出ると、練習をやってきてよかったなと思えるので。お父さんに『ありがとう』って思っています。野球をやっていなかったら、今の自分はいなかったなって思うので」
野球をやっていない自分は想像できない。大学に進学し、社会人野球まで続けたいと考えている。高校3年の夏、1つの集大成ではあるが、高校野球も甲子園も、“ゴール”ではない。