【光る君へ】藤原為時の栄転! なぜ婚期が遅れた紫式部は一緒に越前に行ったのか?
大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部と藤原宣孝が結ばれた。しかし、当時の式部は20歳を超えており(正確な年齢は不明)、婚期が遅れていた。なぜ、式部は越前守になった父の藤原為時とともに越前に向かったのか考えることにしよう。
紫式部の父の藤原為時は、大変な苦労人だった。為時は優れた学識に恵まれていたが、なかなか職にはありつけなった。それは現在でも同じことだが、単に頭が良いだけでは就職は難しかったのだろう。
永観2年(984)に花山天皇が即位すると、為時は式部丞・六位蔵人に任じられ、ようやく念願を果たした。しかし、2年後に花山天皇が退位すると、為時も職を失ったのである。
その後の為時は、就職活動に余念がなかったと想像されるが、なかなかうまくいかなかった。長徳2年(996)、宋人との交渉が期待されたこともあり、為時は従五位下・越前守に任じられたのである。
その際、式部には京都に残る選択肢もあったが、あえて父に同行して越前に向かった。むろん、式部が父に従って越前に行った理由は、必ずしも明確ではないが、その辺りの事情を考えることにしよう。
先述のとおり、式部の婚期が遅れていたのは事実である。当時、おおむね10代の半ばから後半になれば、結婚するのが当たり前だった。しかし、式部は、すでに20歳を超えていたと考えられる。
とはいえ、良い話がなかったわけではない。当時、すでに式部はのちに夫となる宣孝と良い関係にあったのではないかと指摘されている。しかし、その話に式部の気が進まなかったのか、いったん終わったという。
つまり、式部は為時が越前守に任じられたことを喜びつつも、自身はすっかり傷心だったということになろう。そこで、いったん宣孝のことを忘れるため、あえて父の為時とともに越前に向かったと推測される。
京都から越前に行くには、逢坂山から打出浜に出て、そこから船で琵琶湖を横断した。そして、塩津から北陸道を歩いて越前敦賀に向かい、そこから越前国府を目指したのである。式部は道すがら美しい風景に心を奪われ、歌を詠んだ。少しは傷心が回復したかもしれない。