日本社会の課題と教訓:「スリランカ」からの共生へのメッセージ
近頃、日本で目にする情報の中で「スリランカ」が注目されている。特に7月末に終了したスリランカ人が登場するNHK土曜日ドラマ「やさしい猫」が話題となった。
私自身もこのドラマでは「ペレラ」という役を演じ、また「スリランカ文化考証」も担当した。この「やさしい猫」との関わりは古く、原作者の中島京子さんからスリランカについての質問を受けたのは、2020年の2月で、今から3年以上前のことだ。
「やさしい猫」は、2020年5月7日から2021年4月17日まで読売新聞夕刊に連載されていたが、2021年3月6日に「スリランカ」が報道されるきっかけとなる事件が起きた。同国出身のウィッシュマさんが入館施設内で亡くなった。私は「やさしい猫」の連載をオンタイムで読み続けた一人として、作者が予知能力を持ってウィシュマさんの事件が起きないように警鐘を鳴らしていたのではないかと感じたことを思い出す。
今ではウィシュマさんの死亡事件と「やさしい猫」が頭の中で繋がってしまう人も多い。そして国会における入管法改正の時期と重なったことで、「スリランカ」の露出も一段と増えたと振り返る。
「スリランカ」によって、日本社会に存在している制度や心の壁が明らかになった。同時に日本の国民感情も大きく分かれていることがわかった。社会は保守派と革新派とで大きく分かれており、インターネット上でも日本の制度に対する評価が対立していて、互いに納得のいく解決策が見つかっていない状況だ。
<日本人による、日本人のための、日本人本位の「国際」を脱した「民際的国際」のススメ >
明確なことの一つは、日本には外国人との共生を望まない一定の割合の人たちがいるということだ。それを踏まえた上で、日本は外国人との共生をどうしていくのかという問いを我々に突きつけられている。これは、一人残らず、この国の全ての人に出されている宿題でもある。外国人との共生に否定的な日本人は、大いにして日本の現状維持や繁栄を人一倍望んでいる傾向があるが、皮肉にもそこには外国人の力なしでは実現できないという矛盾があるとうのは現実なのだ。
現在の日本において、外国人との共生が最重要なテーマであることは間違いない。客観的な数字を見ても、日本の人口は減少しており、外国人の人口は増えている。2023年1月1日時点で、日本人の人口は、1973年の調査開始以来はじめて全都道府県で前年比より減り、逆に全都道府県で外国人の人口が増え、その数は過去最多の299万人に達した。外国人なしでは今の日本を維持することは難しい。特に労働力不足は深刻であり、周辺諸国との労働者取り合いの競争が激化している。日本でも急ピッチで、外国人が日本に来て、働き、住むための政策が次々に打ち出されている。
外国人との共生の必要性は今後も変わらない。例えば、日本人の未婚や晩婚、そして少子化が問題視されている中、「国際」でみると、結婚ラッシュと、ベビーブームになっているのだ。約30組に1組が国際結婚で、生まれてくる赤ちゃんの24人に1人は父母の両方または一方が外国人なのだ。このままだと2070年には日本の総人口が減少し、その1割は外国人になるとされている。ただこれは外国人として登録された数値であり、ダブルなども含めると、日本人口の約半分が外国ルーツになる可能性も考えられる。
岸田首相が7月に、日本における「外国人との共生」の必要性について言及した。私が知っている範囲では、これは日本の首相として初めてのことだ。政権与党は、これまでいわゆる保守離れを警戒して言葉にしなかったものを、ここに来て口にしたということは、逆に言えば日本はそこまで切羽詰まっていることの表れでもある。
結論として、外国人との共生の必要性は否応なく存在するが、問題はその共通認識が日本社会全体に浸透していないことだ。現実を踏まえて、質の高い共生社会を築くためには、制度と心をアップデートする必要があるということになる。
なぜそうしなければならないかという疑問も現れるだろう。それに対する答え、少なくとも一つの答えはそれこそ「スリランカ」にあると考える。
世界的に注目されたスリランカ経済破綻の報道から今年の7月でちょうど1年が経つ。同じ7月には、「ブラック・ジュライ(Black July)から40年」というもう一つのニュースも注目された。
約40年前のスリランカでは、少数民族のタミル人と多数派民族のシンハラ人が「違う」というだけで互いに命を奪い合う事件が発生し、それが26年間にわたる内戦につながった。この間、国の財産の多くが破壊され、無意味にたくさんの命が失われた。余談ですが、私の同級生もこの戦争で亡くなり、死にたくなかった私は36年前に日本に逃げてきた。両者間の争いの発端は、政治によって、さらに言えば国の多数派が望む政治によって引き起こされたものだった。多数派のシンハラ民族を重視し、少数派タミル民族の権利を無視した政策実施がその原因となった。
昨年のスリランカ経済破綻と40年前のブラック・ジュライも実は密接につながっている。26年間続いた内乱を終わらせたのは、ラージャパクシャ一族であり、経済破綻を引き起こした際に政権の座に就いていたのも彼らだった。ラージャパクシャ一族は、少数派を抑圧し戦争を終結させた功績が多数派民族に評価され、政権の座に就き、その後、少数民族を差別し、多数派民族を優遇する政策を推し進め、多数派民族からの絶大な人気を背景にして政権の座に長くとどまった。そして極端に言えば、多数派からの人気を得るためだけに神経を注ぎ、国の舵取りを怠った結果が経済破綻を招いたのだった。
つまりスリランカから日本へのことづけは他でもない。少数派を無視した多数派中心の国は平和や安定を失わせるということだ。
スリランカの一連の出来事は、多数派と少数派の民族の問題だった。それに対して、日本の場合は民族ではなく、日本人と外国人の問題になる。ただ、異なる人々が共生する社会をどう創っていくべきかという意味では、本質的には同じだ。
少数派に我慢を強いる、行き過ぎた多数派中心の社会は結果として幸せにはならない。例えば、外国人との共生に関して、最近ネット上で行き交う「移民受け入れ」という言葉で言うと、(むろん私は推進派ではなく、慎重派ではあるが、)移民受け入れ自体が問題ではなく、移民を受け入れるホスト側の質が問われているということになるのだ。その質によって、因果応報が決まるということになる。
つまり、外国人との共生の必要性を考える上で、「スリランカ」から多くの示唆を得ることができる。日本は変化する時期にあり、共生を促進するためには制度と心を更新していく必要がある。それが現実を踏まえた質の高い共生社会の構築への鍵となるだろう。