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「日本野手初のメジャーリーガー」を目指した男は「イチローの捨て駒」だったのか?

阿佐智ベースボールジャーナリスト
「ユニ・キム」の名でアメリカでプレーした金森潤熙(本人提供)

アメリカでぶち当たったアイデンティティの壁

 結局、社会人野球でも彼は「金潤熙」を名乗った。実業団の新人研修に参加した同期生には、のちプロに進む選手も多く参加していた。彼らが、希望球団や契約金の話をする中、その輪に入ろうとすると、コーチから「お前には関係ない」と腰を折られるような台詞が投げかけられた。その言葉の裏に、自身の韓国名があることを金森は感じた。

「今はもう国籍も変えたので、正真正銘日本人です。でも、私はずっと自分をそう思っていましたよ。韓国に住んだこともないし。サッカーだってどっちを応援するかって聞かれたら、そりゃ日本を応援しますよ。選手も知らないし、韓国にほとんど思い入れはないですから。韓国の国歌だって知りません」

 金森は、自身のルーツについて興味がない。韓国籍であるのは、本貫地が現在の韓国の領域に入っているからで、両親が政治的なポリシーをもっているのかどうかさえ知らない。本貫地とはすっかり縁も切れ、そこに縁者がいるかどうかさえ知らない。その本貫地が慶尚南道であることも、アメリカに渡る際、パスポートを作ったときに初めて知った。韓国の地を踏んだのも、渡米の際のトランジットでの1度きりだ。

「アメリカに渡る時に日本国籍に変えようとしたんです。でも結局、親とけんかになって…。日本国籍取ったのは、親父が死んだ後ですね。でも、親父は日本が嫌いだとか、そういうのはなかったですよ。彼だって日本生まれの日本育ち。それも宇和島で生まれているから、在日が周りにいないんですよ。友達はみんな日本人ばっかりだった。でも、名前と国籍に関しては頑固でしたね」

 1997年2月、金森はアリゾナ州ピオリアに降り立った。マイナーのキャンプには100人ぐらいの選手が集まっていた。ほとんどがまだ契約もすませていない金森らと同じ立場のものだっただろう。

「最初、中山さんのキャッチャーということで行ったんです。キャッチャーじゃないというのは、すぐばれましたけれどもね。向こうでは、まず投手組がキャンプ開始して、野手組は少し遅れますから。早く行けば、バッティングもさせてもらえるということです」

 アメリカ野球のキャンプ、スプリングトレーニングは日本のそれとは違い、毎日がトライアウトのようなものだ。球団から不要な戦力と見なされたものはその場で立ち去ることを余儀なくされる。キャンプ開始から1週間ほどで最初のリリースが行われた。週毎に支給されるミールマネーを手にすることで金森は自分がまだ振り落とされていないことを実感した。

 無論通訳などはつかない。ときおりコルボーンが世話を焼きに顔を出してくれたが、言葉も通じない慣れない環境に苦労の連続だった。それでも、キャンプが終わり、シーズンが開始されようとする頃になって、契約書を球団から差し出された。金森はA級のカリフォルニアリーグで「ユニ・キム」としてプロデビューを飾った。

 日本の社会人野球のトップレベルで主軸を任されていた金森が、メジャーまではるか遠い「四軍」でプレーするのは難しいことではなかった。開幕戦の初打席をホームランで飾った金森は、打点、打率も含め「開幕ダッシュ」に成功。地元紙にも取り上げられるようになるが、その中でやはりアイデンティティの壁にぶち当たることになる。

「僕のベースボールカードには日本の社会人野球のカワサキスチールからやってきた選手だって紹介されているんです。それみるとみんな日本人選手だと思うんですよ。でも、名前はコリアンなんです。アメリカ人からしたら『韓国系日本人』ですね。一度韓国プロ野球からオファーが来たんですが、その時に言われたんです。『お前、日本から来たんだから日本人だろう?どうして韓国人なんだ』って」。 

 ある日の試合のことだった。金森が打席に向かうと、聞き慣れない名がアナウンスされた。

「ユン・ヒー・キム!」

 試合後、一体どういうことなのかと球団に尋ねると、逆に尋ねられた。

「お前こそ、どうして今まで違う名前を名乗っていたんだ?」

 今一度、大韓民国発行の自分のパスポートを確認すると、そこには “Yoon-Hee, Kim”とあった。生まれてこの方そう呼ばれたこともない「キム・ユンヒ」が自分の「正式な」名であることを初めて知った。

 カリフォルニアはゴールドラッシュ以来、多くの東洋人移民を受け入れてきた。その歴史的経緯から、金森の周辺には日系人コミュニティも韓国人コミュニティも存在していた。東洋からやってきて地元の英雄となった金森だが、その両方から受け入れられることはなかった。

「一応言葉的には日本語なんで、最初は日本人のコミュニティにつないでくれたんですが、結局名前なんですね。『キム・ユンヒ』だと受け入れてくれない。じゃあ韓国人コミュニティはどうなのかって言うと、こっちは言葉をしゃべれないので受け入れてくれません。コリアンからはこう言われるんですよ。『おまえは日本人なんだろう?韓国人なのか?どっちなんだ?」って」

 その問いは、長年、金森自身が自分に向けてきた問いだった。

たった2シーズンで終わったアメリカでのプロ生活

 韓国プロ野球でプレーする気にはならなかった。アメリカで「もっと上」を目指そうと思ったからだ。

「マイナーですが、一応4番打って、成績も残していたんで。毎日マックを食べるような生活で、通訳もなくて、コーチと一緒に住んで、そういう環境の中でこれだけできたんやから、2年目プレーしたら分かってくるんじゃないかって」

 アメリカでの初年度シーズンの成績は、89試合289打数70安打15本塁打というものだった。異国での過酷な環境を考えると、十分に今後に期待できる数字だろう。しかし、現実は厳しいものだった。9月頭にシーズンを終え帰国した彼の元に年末に届いたのはリリースの通告だった。ビザの枠の関係というのがその理由だった。

「ビザの話は建前だと思ってますよ。僕がA級で活躍したのを見て、今度は自分のチームの選手をキャンプに参加させてみよう、そういうことだったと思っています。だから次の年(1999年)、ブルーウェーブの選手がマリナーズのキャンプに参加しているでしょう。井箟さんがメジャーに選手を送りたいと考えていたのは薄々わかってました。それが僕でなくイチローだったということでしょう」。

 金森は、1998年の春をアリゾナで迎えることはなかった。行き場のなくなった金森に助け舟を出したのはコルボーンだった。前年までプレーしていたカリフォルニアに基盤を置くウエスタン・リーグという独立リーグの新チームへの橋渡しをしてくれたのである。オックスナードという町を本拠とするパシフィック・サンズが1998年シーズンの金森のプレーの場となった。この時、彼は日本名の「ジュンキ・カナモリ」に名乗りを変更したと言うが、当時のスタッツ(成績表)には、「ユニ・キム」の名が残っている。

 このアメリカでの2回目のシーズンは厳しいものだった。開幕後に用意してもらえるはずのビザは、故障もし、調子の上がらない金森に対し用意されることはなかった。ノービザでの滞在期限が近づいたシーズン半ば、金森は2度目のリリース通告を受けた。27歳になっていた彼はここで引退を決意した。 

 帰国後、金森のもとには、高校野球の指導者の話も入ってきた。しかし、それまで想定されなかったアメリカでのプロ経験者について、国内プロ野球経験者と同等の扱い、つまり高校大学生への指導は教員経験を経なければならないという通達が出され、学生野球の指導者の道も絶たれてしまう。

イチローへの「試金石」だったのか、「捨て駒」だったのか

 金森は、自身のアメリカでのプロ生活を今振り返ってみて「時代だった」と感じている。

「野茂(英雄)さんが1995年にメジャーに行ったでしょう。あれで我々の心理的距離も近くなったと思います。自分も完全に影響を受けましたね。野茂さんの存在がなかったら、アメリカ行きの話があっても、多分、断っていたと思います」

 野茂英雄がメジャーリーグに旋風を巻き起こし1990年代後半、なだれをうったように日本から多くの選手がアメリカ目指して太平洋を渡っている。しかし、そのほとんどはマイナー契約での渡米であり、一部の例外を除いては、メジャーという夢半ばにして終わっている。とくに野手においては、マイナーからメジャーへ這い上がった者は誰ひとりとしていなかった。日本球界からメジャー野手が誕生するのは、2001年のイチローのメジャーデビューを待たねばならなかったのである。それに先立つこと4年前にアメリカの地に立った金森は、自身を「試金石」ではなかったかと考えている。

「今にして思えば、1年目のシーズン後に、野手としてアメリカでプレーしていく中で、どういうことが大変だったとか、チームメイトとの関係はどうだったとかいろいろリサーチされたんですよ。これはもう全部、イチローをメジャーに送り込むためのことだったんじゃないかと」

「もし」を言ってもせんないことだが、あのままマリナーズのマイナーチームでプレーを続けていれば、金森はメジャーの舞台に立てたのだろうか。その問いに対して金森はこう答える。

「仮に僕がコーチで、子供のときの自分という素材を見たらメジャーのトップに行かせられると思いますね。10代とか若い時期に、アメリカでやって生活環境にもアジャストしていけたらっていうのは今でも思います」

 悪く言えば、日本人メジャー野手誕生の「捨て駒」として利用されたわけであるが、金森はそれすらも受け入れている。

「だって、もう野球をやめようと思っていたんですから。僕がマリナーズと契約できたのも、やっぱり井箟さんのおかげですよ。井箟さんには感謝していますよ。僕を送り出したところ、マイナーでそこそこ活躍した。それならばイチローもということになったんじゃないでしょうか」

 その後、金森はサラリーマン生活を送ることになった。しかし、二度にわたる生死をさまよう大病のため、現在は、「運動理論物理学者」として後進の指導に努めている。

「今はだいぶましになりましたけど、一時は寝たきりの状態でしたから。自分のプレーや病気からのリハビリの経験から分かった身体理論を伝える活動をしています。最初はネットでやっていたんですけど、今は指導者回復講習を受けて高校野球の指導もしています」

四半世紀前のアメリカでの体験を振り返る金森氏(筆者撮影)
四半世紀前のアメリカでの体験を振り返る金森氏(筆者撮影)

 あれから四半世紀。侍ジャパンが世界一になり、日本人メジャーリーガーも珍しくはない時代になった。高校球児の夢は今や「メジャーリーガー」だ。それでもアマチュア球界から直接世界第一のパワーハウスに挑戦する者はほとんどいない。

「僕の後、アメリカに多くの選手が行きましたけど、日本のプロからメジャー契約で行った選手以外は、箸にも棒にもかからない選手、野球をドロップアウトしたような選手がほとんどでしょ。ドラフト候補で行って、向こうで成功したのは田澤(純一, 元レッドソックスなど)ぐらいじゃないですか。あの大谷だって、日本ハムが必死に止めたでしょう。結局、僕みたいなのが出てくるのは、プロ球界としては困るということですね。だから(アマチュアから)メジャーと契約した奴は、日本のプロに入ったのと同じとみなしますよというペナルティーをつくったんでしょう」

 それが、いいのか悪いのかについて、金森は触れようとしなかった。今になって思うのは、もしイチローより先にメジャーの舞台に立つようなことになっていたならば、自分はどう表現されていたのだろうということだ。運と実力、それに複雑な出自。様々な面において「最初の日本人メジャーリーガー」になり損ねた男の姿がそこにはあった。

(了)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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