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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝の父・義朝は父や兄弟を抹殺した血も涙もない男だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義朝は、自らの手で父や弟を斬首した。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では取り上げられなかった、源頼朝の父・義朝。彼が父や兄弟を抹殺したことはご存じだろうか。以下、その経緯について触れておこう。

■父・為義との関係

 義朝が為義の長男として誕生したのは、保安4年(1123)のことである。幼い頃から東国で過ごしたこともあり、「上総御曹司」と称されていた。

 ここだけを見ると、義朝の前途は洋々としており、将来の家督相続が約束されていたように見える。

 為義は検非違使(京都の警固を担当)を務めており、院にも仕えていた。当時の武士は在京し、北面の武士などとして京都に滞在する者もあった。

 為義は安房国丸御厨(千葉県南房総市)を領していたので、支配を委ねるべく、義朝を東国に遣わしていたといわれている。 

 そのような事情もあり、義朝は長男であるにもかかわらず、無位無官のままだった。東国にいたことが災いしたのだろう。

 一方、為義の次男・義賢は父と京都にあって、東宮帯刀に任じられていた。義朝は官位の面で、弟に先んじられたのである。

 一説によると、為義は義賢を後継者とし、義朝を廃嫡したといわれている。それが事実ならば、義朝は為義と義賢に少なからず遺恨を抱いた可能性はあろう。

■弟の義賢を討つ

 保延5年(1139)、義賢は源備殺害事件(滝口の武士・源備が宮道惟則と争い、殺害された事件)に関わっていたという嫌疑を掛けられ、東宮帯刀の職を解かれてしまった。ここから義賢の転落がはじまったのである。

 その後、義賢は廃嫡となったものの、父・為義と行動をともにした。その一方、義朝は下野守となり、勢力を伸長する。

 義賢は武蔵の豪族・秩父重隆の娘を妻とし、その威勢をバックにして義朝に対抗した。為義と義賢は、義朝を脅威と感じたのである。

 久寿2年(1155)、義朝は子の義平に命じて、大蔵(埼玉県嵐山町)にいた義賢と重隆を討たせた(大蔵合戦)。

 義朝は先手を打って、先に義賢を討伐し、将来の禍根を取り除いたのである。亡くなった義賢の遺児が、のちの木曽義仲である。

■保元の乱の悲劇

 ときは流れて保元元年(1156)の保元の乱において、義朝は平清盛らとともに後白河方に与した。一方の為義は、ほかの子(義朝の弟)らとともに崇徳方に味方した。

 両者が敵対したのは、それまでの遺恨が影響したと考えられる。

 その結果、後白河、義朝方が勝利を収め、崇徳、為義方は敗北を喫した。当然、敗者は厳しく処罰された。

 たとえば、後白河方に与した清盛は、叔父の忠正を斬ったほどである。たとえ、親子、兄弟であっても、厳しい処分を免れなかった。

 義朝はこれまでの自身の武功をアピールし、父・為義らの助命嘆願を訴えた。義朝は父と対立したとはいえ、さすがに親子の情愛は残っていたのだろうか。

 しかし、後白河の側近である信西は義朝の願い出を認めなかった。こうなると、義朝は従わざるを得なかった。

 保元元年(1156)7月30日、義朝は船岡山(京都市北区)で泣く泣く父の為義をはじめ、弟の頼賢、頼仲、為宗、為成、為仲を斬首したのである。八男の為朝だけが逃亡に成功した。

■むすび

 義朝は為義や弟を斬首したものの、決してメリットがあったわけではない。官位の面では、ライバルの清盛に後れを取り、大いに不満を抱いたという。

 とはいえ、近年の研究によると、義朝の与えられた左馬頭は妥当であるとの評価がある。

 それどころか『愚管抄』によると、義朝は父を殺したということで、世間から非難を浴びたといわれている。

 いずれにしても、義朝自身は平治元年(1159)の平治の乱で清盛に敗れ、逃亡の途中の尾張で非業の死を遂げたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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