まもなく福知山線事故から14年。過去の事故の歴史から鉄道の安全性を考えてみました。
2005年に発生したJR西日本福知山線事故からあさって25日で丸14年になります。
お亡くなりになられた方107名、重軽傷者562名というJR発足以降最大の大惨事から私たちが学ぶべきものは事故の再発防止ですが、年月が経過するとともに若い人たちが世の中に台頭してくることで、事故を知らない世代が増えていきます。
そうして人々の記憶からこの事故が薄らいでいくのも事実です。
でも、「忘れたころにやってくる。」のがこのような大事故でもありますから、風化することがないよう、今一度過去の鉄道の事故の歴史を振り返って、私たちの今の「安全な輸送」というものが、多くの尊い命の犠牲の上に成り立っているということを再確認していきたいと考えます。
1960年以降の鉄道大事故
戦後の混乱期には疲弊した車両や線路設備などが原因による大事故が数多く発生しました。どの事故も忘れてはいけない教訓を含んでいますが、今回は戦後の混乱期が一段落した1960年以降に発生した鉄道事故の中から、乗客が死亡した事故、多くの負傷者が出た事故、または社会に大きな衝撃を与えた事故などを抜粋してみました。
1960年代
【姫新線列車バス衝突事故】
1960年(昭和35年)12月12日 8時20分ごろ
姫新線美作追分- 美作落合間
遮断機のない踏切で列車とバスが衝突
10名が死亡、54名が重軽傷
【大分交通別大線列車埋没事故】
1961年(昭和36年)10月26日
大分交通別大線(1972年に全線廃止)で、大分発亀川行き列車が走行中にトンネルから出た直後に豪雨による土砂崩れに遭遇し埋没。列車に乗っていた下校途中の児童・生徒ら31人が死亡し、乗員2人と乗客34人が重軽傷を負った。
【常磐線三河島事故】
1962年(昭和37年)5月3日
国鉄戦後五大事故(※注)のひとつ。
常磐線三河島駅構内で貨物列車と下り電車が衝突。
下り電車の乗客たちが電車の外に避難したところへ上り上野行電車が突入。
上り電車は線路上に避難していた乗客多数を巻き込みながら下り電車に衝突、双方の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両は築堤下へ転落して民家に突っ込み、死者160名を出す大事故になった。
【南武線踏切事故】
1962年(昭和37年)8月7日
南武線津田山- 久地間の踏切で警報を無視して進入したトラックに下り電車が衝突。
上り線を支障した下り電車に上り電車が衝突し、3名が死亡。
踏切事故の多発が問題視され、踏切設備の改良や立体化など、踏切の抜本的な整備策が検討され、当面の対策として踏切支障警報装置の設置が進められた。
【鹿児島本線踏切事故】
1963年(昭和38年)9月20日
鹿児島本線香椎- 箱崎間の踏切上で故障して停車していた大型トラックに上り快速列車が衝突。
脱線して下り線を支障した上り列車に下り普通列車(気動車1両)が衝突し、8名が死亡した。
列車防護の措置をとる間もなく対向列車が衝突した。
前年に発生した南武線事故と同様の事故。
【東海道本線鶴見事故】
1963年(昭和38年)11月9日
国鉄戦後五大事故(※注)のひとつ。
東海道本線鶴見- 新子安間で、貨物線(現在の横須賀線線路)走行中の下り貨物列車が脱線し、そこに横須賀線の上下旅客列車が進入して三重衝突事故。
死者161名、重軽傷者120名。
原因は競合脱線。
【東武伊勢崎線バス衝突事故】
1966年(昭和41年)9月22日
東武伊勢崎線越谷駅付近の踏切において、東武バスに日光発浅草行き特急けごんが衝突。
バスは約135m、越谷駅ホームまで引きずられ大破、列車も最後尾の1両を残して脱線した。
バス乗客ら4名が死亡、乗客ら12名が負傷。
【東武西新井駅列車衝突事故】
1966年(昭和41年)12月16日
東武大師線電車と東武線乗り入れの営団地下鉄(現:東京メトロ)日比谷線電車が、伊勢崎線と大師線の分岐駅である西新井駅構内で衝突。
乗客らが7名死亡、重軽傷者は20名以上となった。
【南海電鉄列車脱線転落事故】
1967年(昭和42年)4月1日
大阪府泉南郡泉南町(現・泉南市)の南海電気鉄道南海本線踏切。
難波発和歌山市行き下り急行電車が、踏切に進入しエンストした大型トラックと衝突。
橋梁から1・2両目が5m下の河原に転落し乗客5名が死亡、208名が重軽傷。
【御茶ノ水駅電車追突事故】
1968年(昭和43年)7月16日22時38分
中央本線・御茶ノ水駅で停車中の豊田行き電車に、後続の高尾行き電車が追突。双方の電車とも5両ずつが脱線した。
負傷者210名。死者は出なかったものの都会での通勤電車の追突事故で200名を超える負傷者が出た。
【東武伊勢崎線館林事故】
1969年(昭和44年)12月9日 8時13分
伊勢崎発浅草行き準急列車が、伊勢崎線多々良- 館林間に踏切にて、警報を無視して進入してきた大型クレーン車と衝突。
死者7人、負傷者101人。
1970年代
【山陰線川棚温泉- 小串踏切脱線事故】
1970年(昭和45年)3月30日
下関発京都行き上り普通第826列車は山陰本線川棚温泉駅を定時に発車し、時速55kmの惰行運転中、進行方向右側から警報を無視し直前横断しようとするミキサー車と衝突し、1両目客車は全軸脱線し、進行右側に横転破損し、2両目も全軸脱線した。
旅客4名、ミキサー車運転者1名の計5名が死亡し、旅客29名が負傷。
【東武伊勢崎線花崎駅踏切衝突事故】
1970年(昭和45年)10月9日20時17分
東武伊勢崎線鷲宮- 花崎間(花崎駅東側)の踏切で大型ダンプカーと浅草発伊勢崎行き準急列車が衝突、5名が死亡し、173名が負傷。
【富士急行列車脱線転覆事故】
1971年(昭和46年)3月4日8時25分ごろ
富士急行大月線月江寺駅の富士吉田駅方踏切で、河口湖発大月行き電車が、踏切内に進入した小型トラックと衝突。
車両の下に引きずり込まれたトラックが空気溜めを破損したためブレーキが全く使えなくなり、電車は逸走し約4kmを暴走。
月江寺- 暮地(現在の寿)間の4駅を通過した後、暮地- 三つ峠間(最急40‰の下り勾配)のカーブに猛スピードで進入し、進行方向左側の沢に転落し、後部車両が大破した。
乗客約120名のうち17名が死亡、69名が負傷。
【近鉄特急衝突事故】
1971年(昭和46年)10月25日
近鉄大阪線榊原温泉口- 東青山間の総谷トンネル内で、上本町発近鉄名古屋行き特急電車(4両編成)と賢島発近鉄難波・京都行きの特急電車(7両編成)が正面衝突。
死者25名、重軽傷者218名。
【船橋駅構内追突事故】
1972年(昭和47年)3月28日 午前7時21分ごろ
総武本線船橋駅で駅構内の信号機トラブルにより停車中の緩行線上り電車(10両編成)に、後続の緩行線上り電車(10両編成)が追突。
758名が負傷。死者は出なかったものの、朝の通勤時間帯で乗客が非常に多かったため、日本の鉄道事故としては被害者数が最悪の事故となった。
【日暮里駅構内追突事故】
1972年(昭和47年)6月23日
京浜東北線北行電車(10両編成)が日暮里駅を2分遅れで発車したところ運転台の戸閉表示灯が消灯したためブレーキを掛け、約90m進んだ所で停止した。一方で、後続の山手線内回り電車(10両編成)の運転士は一つ手前の鶯谷駅を1分遅れで発車し日暮里駅に進入しようとする際、先行列車がホーム中央部分に停車しているのに気付き、非常ブレーキを掛けたが間に合わずに追突し143名が負傷した。
【繁藤駅土砂崩れ列車転落事故】
1972年(昭和47年) 7月5日 午前10時50分
梅雨末期の集中豪雨により、土讃本線繁藤駅近くの追廻山が土砂崩れを起こし、駅構内に土砂が流入した。
角茂谷駅との間が不通になっていたために停車していた高知発高松行き普通列車(機関車+客車3両編成)がこの土砂崩れに巻き込まれ、機関車と客車は近くの穴内川に転落し押し流された。列車はすでにバスに振替輸送をしていたが、車内に数人の乗客がおり2人が救出された以外は行方不明となった。また、同日朝に付近で発生した小規模の土砂崩れによって行方不明になった消防団員1人の救出作業にあたっていた町の職員や消防団員、国鉄職員らも巻き込まれ、合わせて59人が犠牲になった。
【北陸トンネル列車火災事故】
1972年(昭和47年)11月6日
北陸本線北陸トンネル内を走行中だった、大阪発青森行き急行列車「きたぐに」の11号車食堂車から火災が発生し、列車が当時の規則に基づいてトンネル内で停車した。しかし、密閉された空間であるトンネル内だったことから、乗客・乗務員の多くが一酸化炭素中毒にかかり、30名が死亡、714名が負傷した。
この事故の教訓から列車火災発生時はトンネル内で停車しない規定に変更された。
【関西線平野駅列車脱線転覆事故】
1973年(昭和48年)12月26日
関西本線平野駅構内を走行中の湊町(現:JR難波)発奈良行き上り普通電車が分岐器の制限速度を超過して脱線転覆。
3名が死亡、149名以上が重軽傷。
【上越線急行「佐渡」脱線事故】
1977年(昭和52年)3月8日
上越線津久田- 岩本間で直径3.7m・重さ30tの巨大な岩が崖から落下。
上野発新潟行下り急行列車「佐渡3号」(12両編成)が激突。前から4両が脱線し、837人の乗客中1人が死亡111人が負傷。
1980年代
【特急やくも列車脱線事故】
1984年(昭和59年)7月21日 10時50分ごろ
山陰本線松江- 東松江間の踏切で、特急「やくも1号」が、踏切内で立ち往生していた大型トラックに衝突し1両目が脱線。
この事故で乗客1名が死亡し、21名が重軽傷を負った。
【能登線列車脱線事故】
1985年(昭和60年)7月11日 14時21分
能登線(のちに第三セクター化されてのと鉄道能登線に変更、現在当該区間は廃止)古君- 鵜川間で、金沢発蛸島行き下り急行列車「能登路5号」(4両編成)が、進行左側の築堤の盛土が一部崩壊し線路が浮いている場所に進入し全車両が脱線、前3両が築堤の約8m下の水田上に落下、横転。旅客7名が横転した2両目気動車の下敷きになって死亡、32名が負傷した。
【山陰線余部鉄橋列車転落事故】
1986年(昭和61年)12月28日 13時25分ごろ
下り臨時回送9535列車(ディーゼル機関車+客車7両)として山陰本線鎧- 餘部間にある余部橋梁を約50km/hで走行中、日本海からの強風にあおられて、客車がすべて鉄橋から転落(機関車は客車より重いため転落を免れ橋梁上に残った)。
転落した客車は真下にあった食品加工場(蟹加工工場)と民家を直撃し、工場の従業員5名と列車の車掌1名が死亡、車内販売員3名と工場の従業員3名が重軽傷を負った。
【近鉄東大阪線生駒トンネル火災事故】
1987年(昭和62年)9月21日 16時20分ごろ
近鉄東大阪線(現在のけいはんな線)新石切駅- 生駒駅間にある生駒トンネル内で、高圧送電ケーブルから出火、一斉に停電したことにより走行中の大阪港発生駒行列車が生駒駅から約2kmの地点で停車した。
乗客約70人のうち1人が煙に巻かれ死亡、48人が負傷した。
【中央線東中野駅列車追突事故】
1988年(昭和63年)12月5日
中央緩行線東中野駅に停車中の津田沼発中野行き下り普通電車(10両編成)に後続の千葉発中野行き下り普通電車(10両編成)が追突し、後続列車の運転士と乗客1名が死亡、116名が重軽傷。
JR発足後初の死者の出た事故。
1990年代
【信楽高原鐵道列車正面衝突事故】
1991年(平成3年)5月14日 10時35分ごろ
滋賀県の信楽高原鐵道信楽線の小野谷信号場- 紫香楽宮跡間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車(4両編成)と、京都発信楽行きのJR直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(3両編成)が正面衝突。
上り普通列車の乗務員と添乗していた職員の5名、乗客37名の計42名が死亡、614名が重軽傷を負った。
【関東鉄道常総線列車衝突事故】
1992年(平成4年)6月2日
関東鉄道常総線取手駅構内において、入線してきた同駅終着(新守谷発)上り列車(4両編成、乗客約900名)が減速せずに暴走、車止めを突破し、そのまま駅ビルの2階の壁を突き破り、先頭車両が駅ビル店舗に突入して大破した。
乗客1名が死亡。250名以上が重軽傷を負った。
【成田線大菅踏切事故】
1992年(平成4年)9月14日
JR東日本の成田線久住- 滑河間の大菅踏切で、遮断機が下りていた踏切に進入していた大型ダンプカー側面に千葉発佐原行き下り普通列車(4両編成)が衝突。先頭車は前面を大破し、列車の運転士が死亡、乗客65名が負傷した。
【島原鉄道列車正面衝突事故】
1992年(平成4年)11月3日 19時30分ごろ
島原鉄道・阿母崎- 吾妻間において、加津佐行き下り列車と諫早行き上り列車が正面衝突。
乗客1名死亡、73名が負傷。
原因は、上り列車運転士が、別の列車を運転していると思い込み、また車掌も出発信号機の現示を確認しないまま出発合図を出したことにより、所定の交換駅で下り列車の到着を待たずに出発信号機の停止現示を冒進して発車してしまったため。
事故当時、同線にATSは設置されていなかった。
2000年代
【営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故】
2000年(平成12年)3月8日 9時1分頃
帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)日比谷線の東横線直通列車が、中目黒駅直前の急曲線で脱線、対向電車の側面をえぐる形で衝突し、死者5名、負傷者64名。
【東海道線救急隊員死傷事故】
2002年(平成14年)11月6日 19時45分頃
JR西日本の東海道本線(JR神戸線)塚本- 尼崎間で、フェンスを乗り越え線路内で遊んでいて大阪発姫路行きの新快速にはねられた中学生を救助中の救急隊員2名が、後続の京都発鳥取行きの特急「スーパーはくと11号」にはねられ1名が死亡、1名が重傷となった事故である。この原因として当時JR西日本に人身事故発生時の明確なマニュアルがなく、現場を監視していた同社社員と同社運転指令所との連繋が上手くいかなかったため、運転指令所が現場の状況を正確に把握しないまま、運行再開を指示したことが原因の一つであるとされている。なお裁判では社員に関しては無罪、指令所員に対しては有罪判決が下されている。
後にJR福知山線脱線事故が発生した際、同社の運行管理体制のずさんさを指摘する例としてこの事故が報道などで再び取り上げられることにもなった。
【土佐くろしお鉄道宿毛駅列車衝突事故】
2005年(平成17年)3月2日 20時41分頃
高知県宿毛市の土佐くろしお鉄道宿毛線宿毛駅構内で、岡山発宿毛行きの特急「南風17号」(3両編成)が116km/hで宿毛駅に進入し、頭端式(行き止まり式)ホームの車止めを突破して駅舎に激突した。
この事故で運転士が死亡し、車掌1名、乗客10名が負傷。
【福知山線列車脱線転覆事故】
2005年(平成17年)4月25日 9時18分頃
兵庫県尼崎市のJR西日本福知山線(JR宝塚線)塚口- 尼崎間の曲線で、宝塚発同志社前行きの上り快速電車(7両編成)が脱線・転覆。特に前方の2両目は脱線・転覆後、線路脇のマンションに激突し、さらに3両目から側面衝突されて耐震設計マンションの柱に巻きつく形で大破。
このとき、列車は制限速度70km/hのカーブに116km/hで進入していた。
この事故で運転士1名と乗客106名が死亡し、562名が負傷した。
死者の数は鉄道事故としてはJR発足以降最悪で、鉄道事故全般では歴代7番目に多い。
【羽越線特急脱線転覆事故】
2005年(平成17年)12月25日 19時14分頃
山形県東田川郡庄内町榎木のJR東日本羽越本線北余目- 砂越間の第2最上川橋梁で、秋田発新潟行きの上り特急「いなほ14号」(6両編成)が橋梁通過直後に全車両が脱線し、先頭車両は沿線にある家畜共同団地内の養豚場に隣接する堆肥小屋に激突・大破した。
この事故により先頭車両に乗っていた5名が死亡、33名が重軽傷を負った。突風が原因とされている。
ここまでが1960年代から2005年までの死傷者が出た日本の鉄道事故の歴史です。(踏切事故、人身事故等は含まず。)
こうして過去の事故を振り返ってみると、いろいろ見えてくるものがあります。
それは、1960年代から70年代にかけては、ATSなどの信号保安設備や、踏切の警報機や遮断機が設置されていなかったことによる事故が多く発生していること。また、鶴見事故に見られるように貨物列車の競合脱線と呼ばれる事故原因が、当時の技術では「未知の部分」であったことなども挙げられます。そして事故による死傷者の数が多かったのも特徴と言えるでしょう。
年代別死者数
1960年代 386名
1970年代 141名
1980年代 17名
1990年代 44名
2000年代 113名
合計 701名
1960年代から1980年代にかけて、ATSなどの信号保安設備の充実と踏切の改良等により、事故の死者数を見る限り、明らかに減ってきていることがわかります。
ところが1990年代に入ると犠牲者42名を出した信楽高原鉄道の正面衝突事故(1991年5月14日)、犠牲者107名を出した福知山線脱線事故(2005年4月25日)と、改善されてきたシステムの盲点を突くような大事故が発生しています。
このことからわかるのは、安全には「もうこれで十分だ。」ということはないということです。
注目すべきは、この2005年4月25日の福知山線事故と、同年12月25日の羽越本線特急「いなほ」の転覆事故以来、日本では列車の脱線や衝突によるお客様の死亡事故が発生していないということです。
これは、画期的と言えることで、JR西日本、JR東日本がたゆまぬ安全対策に努力していることを示しているものといえます。
また、JRばかりでなく私鉄各社も高架化や地下化による踏切の廃止などの安全対策が充実しているものと判断できます。
1985年の日本航空御巣鷹山墜落事故以来、日本の航空会社が墜落による死亡事故を起こしていないのと同じように、会社が真剣になって安全対策に取り組んできている成果が、死亡事故「ゼロ」という数字に表れていると筆者は理解します。
筆者もいすみ鉄道社長時代は、安全について毎日緊張の連続の日々を過ごしてきましたが、幸いなことに、当時のいすみ鉄道には上記の大事故を教訓としてきちんと研修を積んできたJR東日本出身のベテラン運転士が何名も勤務していて、その彼らが運転技術だけでなく「ヒヤリハット」や乗務中に陥り易いヒューマンエラー等を後輩たちに伝授する訓練を行なうことができました。
また、第3セクター鉄道会社が加盟する協会の安全知識の共有指導などの安全教育も筆者が社長自ら会社の中で行ってきましたので、いすみ鉄道では人為的ミスによるお客様の死亡事故は発生しておりません。
しかし、何度も申しあげるように安全には「もうこれで十分だ。」ということはありません。
安全の落とし穴というのは努力した結果が常に「ゼロ」という数字だということです。
これは、数字だけ見ているような管理者の場合、「ここまで0なんだから、これからも0が続く。」と思い込んでしまったり、「数字が0なんだから、少しぐらい予算を削っても大丈夫だろう。」という行動に出る危険性があるということを知っておかねばなりません。
鉄道会社はJR西日本やJR東日本、あるいは私鉄各社のように安全の専門チームが常に業務を監視している組織があっても、ちょっとでも気を抜いたらいつ事故が発生するかわからないということを骨の髄まで叩き込まれているような会社ばかりではありません。
昨今話題になる公設民営などの上下分離体制の会社などは、数年おきに交代する輪番制の行政の担当者が、「自分は初めて鉄道を担当します。」などと言ってやって来る場合があります。そして、そういう担当者が予算を握る番頭さんである場合が多く見受けられますので、ちょっと気を抜くと鉄道の素人さんがお金の面だけで安全をコントロールしているということになる危険性もあると経験上筆者は考えます。
1960年以降だけでも鉄道事故で700名もの尊い命が犠牲になっているということを、鉄道事業者は決して忘れてはなりません。
また、乗客の皆様方も、今、列車が安全に走っているのは、多くの先人たちの犠牲と、その教訓から得た再発防止のための改善努力の上にあるということを、ぜひ知っていただきたいと筆者は考えます。
2005年から列車事故による乗客の死亡事故は発生していないという事実は、いつ何時崩されるかもしれない。
過去の歴史から、筆者はそのような不安にさいなまれているのであります。
2005年4月25日に発生した福知山線事故から14年になるにあたり、安全というものを再確認していただきたいと切に願っております。
※注:国鉄戦後五大事故とは
・京浜東北線桜木町事故(1951年4月24日 犠牲者106名)
・青函連絡船洞爺丸事故(1954年9月26日 1155名)
・宇高連絡船紫雲丸事故(1955年5月11日 168名)
・常磐線三河島事故(1962年5月3日 160名)
・東海道線鶴見事故(1963年11月9日 161名)
※表紙写真は筆者撮影(写真はイメージであり本文の内容とは関係ありません。)
事故の歴史はWikipediaを参考にして筆者がまとめたものです。