喫煙者の胸のうちを「忖度」する
国会が終わった。政府と厚生労働省が成立を目指した健康増進法の改正案、いわゆる受動喫煙防止対策強化法案は与党との話し合いが決着せず、次の国会へ審議が持ち越しとなった。
喫煙者にとって朗報だろうか。行きつけの飲み屋でタバコを吸えなくなったらどうしよう、と怯えていた人たちは胸をなで下ろしているのだろうか。
タバコを止めたがっている喫煙者
筆者の想像だが、喫煙者の中の少なくない人たちは、むしろ「ヘビの生殺し」状態が続き、どこか落ち着かない気分に陥っているのではないかと思う。なぜなら、社会の趨勢は喫煙者に対して厳しくなるばかりだし、喫煙者の多くは内心でタバコを止めたがっているからだ。中には、今回の規制強化をきっかけに禁煙にチャレンジしてみよう、と考えていた人もいるだろう。
喫煙に限らず、生活習慣病の原因になる暴飲暴食やギャンブル、ネット、セックスなど、依存と言えるような状態はよくある。どんな人も少しぐらいは何かに依存しているものだ。だが、これが「依存症」という病気になった場合、それを止めたいと思ってもなかなか止められなくなる。
たとえば、ご自身が何かに依存していると感じたなら「明日にでもすぐにその行為を止められるか」と自分に問いかけてみるといい。すぐに止められ、長い間その依存が復活しないなら、それは病気である依存症とは言えない。だが、依存症の人はいろいろな理由を付け、その依存行動を止めることができない。
筆者は前々回の記事で紹介した「動機づけ面接法」の簡単なレクチャーを受けたことがある。隣の席に座った受講者とペアを組み、自分が依存している行為、その行為をどう思っているか、いい面と悪い面、止めようと思ったことはないか、どうすれば止められるのだろうか、などについて、その行為自体を否定することなく、相手の気持ちの中にある行為の否定意識に「気付かせていく」という練習エクササイズだ。
筆者の場合、自分のことをゲーム依存と思っていたが、この動機づけ面接法を自分で受け、自分でも相手にやってみると、依存という心理状態についてなんとなく理解することができた。
自分の依存行為が悪いことと感じてはいるが、それをはっきり自認したくはない。その後、悪いことだと相談者に本心を打ち明けた後も、アレコレと理由を付け、依存行為にはいい面もあると自分を納得させ、結局、依存から脱するのを止めてしまうのだ。
一度でも吸えば一生タバコ依存症
タバコも同じだ。自分の健康に悪いし家族にも悪影響があるとわかっていても止められないし、止めない理由をこじつけている。こうした喫煙者の心理と病理について、禁煙外来での禁煙サポートを中心にした依存症の行動療法を続けている磯村毅医師に聞いてみた。
──タバコを「いいことがあったときの自分へのご褒美にたまに吸うだけ」という喫煙者がよくいるが、依存はコントロール可能なのか。
磯村「タバコの場合、もちろん体質によって強い依存状態になる人もいれば、それほど強く依存しなくてもすむ人もいます。しかし、依存する対象をコントロールできている、というのは錯覚に過ぎません。タバコ依存ではニコチンが主な原因物質ですが、一度でもニコチンを身体に入れたなら、そこが依存の入り口です。その先には依存症という病気が待っている。自分ではコントロールできないのが依存であり依存症なんですね」
──ニコチンが体内から排出されれば、依存状態から脱することができるのではないか。
磯村「たとえば、禁煙に成功した喫煙者が何十年もタバコを吸っていなかったのに、たった一度ちょっと吸っただけで再喫煙してしまう、というケースは珍しくありません。ニコチンという依存物質の影響は完全になくなっているのにもかかわらず、心理的な依存からは抜け出せていなかったというわけです。多くの依存症の場合、ごく普通の言動をしますし外見的にも異常は見られません。しかし、心の依存が残っていると簡単に依存状態へ戻ってしまう。このメカニズムを理解していないと、普通の人に見える禁煙できない人に対して『意志が弱い』とか『自己チュウ』などと批判しがちになります。喫煙者は、ニコチン中毒という身体の依存症であると同時に、タバコ依存という心の病人なのだ、という認識が重要なんです」
タバコによるニコチン依存のサイクル。最初はもらいタバコで一本だけだったのが、自分で買うようになって習慣化する。それにともなって脳のドーパミン報酬系が鈍化し、ドーパミンが出にくい状態へ。タバコが初めから美味しいわけではないが、食後などたまに「うまい」と感じると報酬系がさらに強化され、依存状態から抜け出せなくなる。ドーパミン放出機能が低下するとタバコを吸わない状態をストレスに感じ、日常的なほかのストレスと区別がつかなくなる。そうしたほかのストレスをタバコが解消してくれたと勘違いし、さらに本数が増えていく。イラスト:「いらすとや」
──なぜタバコを吸うと依存状態に陥ってしまうのか。
磯村「タバコに含まれるニコチンは、我々の脳の中の報酬系と呼ばれるドーパミン神経系に作用します。ドーパミンは『喜びの神経物質』などと呼ばれ、うれしいときや気持ちいいとき、恋愛やアトラクションなどでドキドキしたときなどに放出される物質です。ニコチンが作用した経験のない非喫煙者の脳では、このドーパミン報酬系が正常に機能している。しかし、ニコチンは強制的にドーパミンを出させるため、タバコを吸う人の場合、この刺激が繰り返されることで次第に反応が鈍くなり、ニコチンがないとドーパミンが放出されにくい脳になってしまうんです」
二重洗脳とサリエンス
──本来なら「うれしいとき、きもちいいとき、ドキドキしたとき」などの出るべきドーパミンが、タバコを吸っただけで出てくるのか。
磯村「その通りです。さらに厄介なのは、ニコチンが切れてドーパミンが出にくくなると脳がストレスを感じ、通常の状態よりもドーパミンの欠乏を感じやすくなります。タバコを吸うとそのストレスが解消されるので、喫煙者はタバコのおかげでストレスがなくなったと勘違いしてしまう。実際はタバコを吸っても、ぜいぜいいいところで非喫煙者の正常な脳の状態に戻るだけなんですが、鈍化して麻痺した喫煙者の脳はそれをタバコのおかげだと感じてしまうんですね。喫煙者は、ドーパミン欠乏という恐怖、そしてそこからの心理的解放という、いわば『二重洗脳』の状態に陥っているというわけです」
──ドーパミンは「喜び」のときにしか出ないのか。
磯村「実はそうではないんです。ネズミを使った実験では、喜び以外の重大なストレスイベントが起きた場合、それを和らげるためにドーパミンが出てくることがわかっています。これを『サリエンス(salience、突起、高い山の峰のこと)』と言います。こうした場面では非喫煙者でもドーパミンが出ていて、それによってストレスのかかる緊張場面を乗り切ることができる。しかし、ドーパミンが出にくくなっている喫煙者はタバコを吸って無理矢理にドーパミンを出さなければ、ストレスから逃れにくくなっているんです。喫煙者にとっては『勇気を奮い立たせるための一本』も、非喫煙者のドーパミンが出ていない通常の脳の状態へようやく戻しているだけなんですね」
サリエンスの状態。飛び込み営業などのストレスがかかる場面に直面すると、非喫煙者の脳からは自然にドーパミンが放出され、その難局に対応できる心理状態へ持っていくことができる。ドーパミンが出にくくなっている喫煙者は、タバコのニコチンに頼って無理にドーパミンを出してもらわなければ対応できない。イラスト:「いらすとや」さん、いつもありがとうございます。
ニコチン中毒という薬物依存症は、タバコ依存という心理的な依存症を引き起こし、それは長く喫煙経験者を支配し続ける。緊張する場面に直面すると、非喫煙者は脳から自然にドーパミンが出て難局を乗り越えることができる。一方、喫煙者はニコチン切れによるドーパミン不足を補うために、ストレスのある場面に遭遇するたびにタバコを吸い、ますますドーパミンが出にくくなってタバコ依存が強くなっていくというわけだ。これは、非喫煙者と喫煙者のストレス耐性の違いにも影響しているのかもしれない。
国会で受動喫煙防止対策強化法案が成立しなかった背景には、喫煙者のこうした「恐怖とそこからの解放」という二重洗脳状態、そして難局を乗り切るためのタバコ神話があったのかもしれない。
この国会で流行った言葉だが、相手の気持ちをおもんぱかって先んじて良かれと思ったことをするのを「忖度」という。こうした喫煙者の依存心理を「忖度」せずにタバコ対策はできない。
逆に言えば、喫煙者の「心の怯え」を解決し、タバコがなくても難局を乗り越えられることを知ってもらえば、受動喫煙防止対策を強化できるのではないだろうか。
磯村毅(いそむらたけし)
1989年、名古屋大学医学部卒。同大大学院卒業後、テキサス大学医学部研究員。帰国後に名鉄病院呼吸器科。「子どものための禁煙外来」を開設したり河合塾とのコラボ企画「禁煙で合格率アップ」などの活動を通じて「リセット禁煙」という禁煙法を提唱している。リセット禁煙研究会・予防医療研究所代表。子どもをタバコから守る会・愛知世話人。トヨタ記念病院禁煙外来医師。名古屋大学医学部非常勤講師(依存症とメディカルコーチング)。日本呼吸器学会認定専門医。動機づけ面接トレーナー。
参考資料:『新 依存症のカラクリ』(磯村毅、2016年、東京六法出版)