【熊本地震】「本丸にはいたくない」 肥後の殿様も弱音を吐いた寛永の熊本地震
平成28年熊本地震を受け、熊本で過去に発生した地震の研究が進んでいる。熊本地震後に注目を集めた明治熊本地震のみならず、熊本を何度も大地震が襲っていたことが、明らかになってきた。特に寛永期(1624〜1645)に熊本を度々襲った地震については、「本丸にいたくない」と城主が弱音を吐くほど、城の被害や長期の揺れは深刻だったようだ。
城の火薬庫が爆発
「熊本では過去に何度も大きな地震が起きていたんです」
熊本市中央区の熊本県立美術館本館で、4月29日に開かれたシンポジウム。同美術館で震災関連の企画展を担当した山田貴司学芸員が、熊本で発生した地震をまとめた年表を紹介すると、会場がどよめいた。
この年表によると、記録が残っている天平16(744)年から始まり、寛永、享保、明治など、数々の大地震が熊本を襲っていた。山田学芸員は「熊本は決して地震が少ない地域ではない」と警鐘を鳴らす。
地震の記録は奈良時代から存在しているが、特に江戸時代のものが充実している。それらの記録からは、城主らの葛藤が読み取れる。
寛永2(1625)年6月17日、加藤忠広が治める熊本を大地震が襲った。マグニチュード(M)は推定で5.0〜6.0。熊本城内の死者は50人を超えた。
7月21日、小倉藩から細川家の使者2人が、加藤家を見舞いに訪れている。使者らは小倉に戻った後、細川家奉行所に被災状況を報告。その内容は、奉行所の執務日記「万覚書」(よろずおぼえがき)に残されている。
万覚書では、「天守をはじめとする熊本城内の建物は瓦や梁(はり)がことごとく落ち、『から木立』のように柱ばかりが残る有様となった」と被害の様子を描写。熊本城内での人的被害については「50人以上が即死」としている。
また、城内の火薬庫が爆発。影響で、周囲500〜800メートルの家屋が吹き飛び、3〜4キロメートルの範囲に石垣の石材や屋根瓦が飛び散ったとしている。
熊本城に深刻な被害
時は流れて寛永9(1632)年。熊本藩主が加藤家から細川家へと移った、歴史的な年だ。同年12月9日に入城した細川忠利は、息子の細川光尚に宛てた手紙の中で、「江戸城以外でこれほど大きな城を見たことがない」と、熊本城の広大さに驚きの声を上げている。
しかしながら驚いたのもつかの間、忠利は、寛永2年の地震の被害を目の当たりにすることとなる。忠利が同月、細川家の相談役で、江戸幕府の勘定奉行を務める伊丹康勝に送った書状には、城の被害状況が書き連ねられている。
「塀は落ち、穴が空いているところがあり、屋根も雨漏りしている。幕府の許可を得て、城の修復工事に取り掛かりたいので、その旨を幕府の老中たちに伝えてほしい」
また忠利は、前任地の小倉では幕府の許可を得て小倉城の修復工事ができていたことを引き合いに、「熊本は塀も直していない」と、加藤家の対応にあきれ返っている。
「本丸にはいたくない」
忠利が入城した翌年の寛永10(1633)年3月以降、忠利は頻発する地震に悩まされる。地震が少し落ち着いた同年5月、忠利は、江戸の家臣らにあてた書状の中で、このような趣旨の思いを吐露している。
「庭がなく、四方を高い石垣で囲まれている本丸にはいたくない。今は下に降りて広い花畠屋敷に住んでいる」
よほど地震が恐ろしかったのだろう。さらに忠利は、将軍家光の御意を得た上で「地震屋」のある庭を設けると明言している。避難小屋を指すとみられるこの「地震屋」。実際に忠利は寛永11(1634)年、江戸幕府の老中らに本丸の「地震屋」のことを相談している。
震災関係の史料を研究する、熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽センター長は、「平成28年熊本地震と同じように、忠利も長期の余震に苦しんでいたようだ。過去の史料を分析し、最新の科学などと共に分野横断的に研究を進めることで、減災・防災に役立てられるはず」と話している。
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熊本で発生した地震の史料などを展示した企画展「震災と復興のメモリー@熊本」が、熊本県立美術館本館で開かれている。一般210円。5月21日まで(15日休館)。詳細は同美術館HP