【深掘り「鎌倉殿の13人」】これは酷い!稲毛重成が無念にも三浦義村に討たれた裏事情
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、稲毛重成が三浦義村に討たれた。なぜ重成は討たれてしまったのか、その裏事情を詳しく掘り下げてみよう。
■稲毛重成という男
稲毛重成は、小山田有重の子として誕生した。生年不詳。重成は小山田を姓としていたが、のちに武蔵国稲毛荘(川崎市宮前区)を本拠として名字の地とし、稲毛を名乗るようになった。
治承4年(1180)、源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、重成は一族の畠山重忠らとともに、最初は平家方に与した。ところが、のちに重忠らとともに頼朝に従ったのである。
重成が北条時政の娘を娶った理由は、時政が頼朝の舅であり、もっとも信頼できる側近だったからだった。重成は時政の娘を妻としたのだから、頼朝から大きな信頼を得ていたのは疑いない。
■畠山重忠の乱と重成
北条時政が武蔵国に手を伸ばそうとすると、畠山重忠は時政に反発した、両者の関係は険悪になった。
元久元年(1204)11月、平賀朝雅は源実朝の妻を迎えるため上洛すると、畠山重保(重忠の子)と酒宴の席で口論になった。原因は不明であるが、御家人らの執り成しで解決した。
元久2年(1205)4月、時政は武蔵に蟄居していた娘婿の稲毛重成を鎌倉に招き寄せた。時政が重成を招いたのは、畠山一族の件に絡んでいるからだろう。このことが、重成の不幸のはじまりとなった。
なお、補足しておくと、重成はこれより以前に妻を亡くしており、出家していた。頼朝はその橋供養に招かれたところ、落馬したことが原因で、亡くなったという説がある。
同年6月20日、重保が鎌倉に向かったが、それは重成が仕向けたことだったという。重成は時政の手先となって、畠山氏討伐に協力していた。その直後、重忠・重保父子は、時政らによって討たれたのだ。
■消された重成
同年6月22日、三浦義村は重成を討伐した。その理由は『吾妻鏡』によると、重忠は謀反の意などなかったのに、重成は時政と牧の方の指示に従い、謀略に加担したというのである。
このとき、時政と牧の方は討たれたわけではなかったので、重成がただ一人、罪を背負わされたということになろう。むろん、重成だけではなく、弟の重朝や子らも討たれたのである。
■まとめ
重成は、一種のスケープゴートに過ぎなかった。さすがの義時も、時政や牧の方を討つのには躊躇したに違いない。まず重成を義村に討たせたことで、義時には時政らを追放する口実ができた。
案外、畠山氏の討伐も、義時が時政らを追放し、自らが権力を掌握するため画策されたのかもしれない?