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大坂の陣の攻防の中で、真田信繁は何を考えていたのか? その悲しき心情に迫る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田信繁像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣後の模様が描かれていた。この間、豊臣方は徳川方と激闘を繰り広げ、和睦に至ったが、真田信繁は何を考えていたのだろうか。その辺りの信繁の心情を探ることにしよう。

 大坂冬の陣で徳川方と豊臣方が和を結んだあと、信繁が甲州牢人の原貞胤を酒宴に招いたときの逸話がある(『武林雑話』)。

 信繁は「大坂冬の陣で戦死すると思っていたが、和睦により生き長らえた」と述懐すると、貞胤と再会したことを喜び、謙遜しながらも「豊臣方の大将を任されたことは、今生の思い出で死後の面目である」と述べた。

 ところが、信繁は和睦はすぐに破れ、戦いが再開されると予測した。そして、親子ともども一両年中に討ち死にすると考え、鹿の角を付けた先祖伝来の兜を披露すると、「この兜をつけた死体を見たら、それは自分のものである」と述べた。

 また、「主君のために討ち死にするのは、武士の習いである」とも言った。しかし、子の大助は人生の大半を牢人として過ごし、普通ならば元服を済ませ立派な武将になっているはずだった。信繁は涙を流し、大助の不憫さを嘆いたという。

 やがて信繁は、白河原毛の立派な馬に乗ると、「大坂城の惣構などが破却されたので、次の合戦では平場での合戦になる」と述べ、「そのときは天王寺表で徳川方の軍勢と戦い、この馬の息の続くところまで戦って討ち死にする覚悟である」と告げた。馬から下りた信繁は貞胤と酒を酌み交わし、夜半に別れたという。

 実は先に示したエピソードだけではなく、この時期に信繁が自身の思いを表現した書状が2通も残っている。最初の書状は、慶長20年(1615)1月、信繁が実姉の村松(上田藩家臣・小山田茂誠の妻)に送った書状である(「小山田文書」)。

 書状の冒頭では、信繁が豊臣方に与したため、真田本家に迷惑がかかっていないか心配している。また、豊臣方と徳川方が和睦し死を免れたが、明日をも知れない状況であると述べており、信繁は常に死を覚悟していたようだ。

 続けて、このまま何事もなく心安らかに過ごしたいと書かれており、信繁は徳川方との合戦を望んでいなかったと考えられる。

 この書状の背景には、和睦に際して豊臣方内部で意見の一致を見ないという現状があった。和睦を結びたい豊臣家重臣と戦争を継続したい牢人たちとの間には、深刻な対立があった。信繁は、徳川方と豊臣方の和睦が反故になると予想したのだ。

 もう一通の信繁の書状を見ておこう。それは同年3月10日付、信繁書状(小山田茂誠とその子・之知宛)である(「小山田文書」)。書状には、信繁は「秀頼から信頼されているが、何かと気遣いがあって大変である」と述べている。

 書状では続けて「定めなき浮世でございますので、1日先のことはわかりません」と心情を吐露している。信繁はやがて和睦が破れ、再び徳川方・豊臣方が戦いに及ぶと予測していたのだろう。

 最初に取り上げた『武林雑話』のエピソードは、どこまで本当かわからない。しかし、あとで掲出した信繁の2通の書状を読むと、さほど違和感はない。豊臣家の前途を憂い、悲壮感が満ち溢れている。

 信繁が前途を悲観的に考えているのは、万が一両者が戦いになったとき、豊臣方の勝利はまずないと判断したからだろう。それが現実だったが、豊臣家の主戦派には思いが届かなかった。

 いずれにしても、信繁は厳しい状況の中で、常に死を意識した日々を送っていたことを知ることができる。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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