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ついに妻を迎えなかった3人の武将。その不幸な結末を探ってみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上杉謙信。(提供:アフロ)

 先日のクリスマスでは、男女のカップルが仲睦まじくしていたが、一方で異性との交際経験がない男女もかなり増えたという調査もある。戦国時代は今と違い、家を残すために結婚するのが当たり前だったが、生涯にわたって妻を迎えなかった武将もいた。そのうち3人を取り上げることにしよう。

1.細川政元(1466~1507)

 政元は、室町幕府の管領を務めた勝元の子で、将来を期待されていた。ところが、政元は要職にあったにもかかわらず、各地を放浪するなどし、修験道にのめり込んでいた。

 何よりも、政元は女性に関心を示すことなく、むしろ男性が好きだったので、生涯を独身で過ごした。結局、政元は後継者たる男子を残すことができなかった。

 そこで、政元は一族の細川義春から澄元を、九条政基から澄之を、それぞれ養子として迎えた。しかし、政元は後継者をどちらにするのか意思表示をしないまま、政界を引退した。

 その結果、2人の養子は家督をめぐって戦い、政元も家督争いに巻き込まれて暗殺され、不幸な死を遂げたのである。

2.上杉謙信(1530~78)

 謙信は長尾為景の子として誕生し、のちに上杉氏の名跡を継いだ。謙信とは、出家したあとの法名である。謙信が生涯を独身で通し、妻を娶らなかった理由は不明である。

 かつて、謙信は女性だったので結婚しなかったという説があったが、根拠のない出鱈目で今では否定されている。結局、謙信には実子が誕生しなかった。

 子のなかった謙信は、一族の長尾政景の子の景勝、北条氏政の弟の景虎をそれぞれ養子として迎えた。しかし、謙信はどちらを後継者にするか決定しないまま病没した。

 謙信の死後に勃発したのが御館の乱である。この戦いで景勝が景虎に勝利して、上杉家の後継者の座に就いたのである。

3.宮本武蔵(1584?~1645)

 宮本武蔵は新免無二の子として誕生したが、その生涯を物語る史料は僅少である。小説、テレビドラマ、映画では、「お通」なる妻が登場するが、「お通」は空想の人物なので実在しない。

 現在では、武蔵の妻に関する記録が確認できないことから、武蔵は生涯を独身で通したと考えられている。

 武蔵は妻を迎えなかったが、のちに養子として伊織(小倉藩・笠原家の筆頭家老)を迎えた。武蔵が結婚しなかった理由は、まったくもって不明である。

 武蔵は牢人(浪人)だったので、決して豊かな生活を送っていたとは考えられない。また、放浪の旅に出ていた模様である。そういう複雑な環境にあったので、結婚しなかったのだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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