【戦国こぼれ話】鬼滅の刃が大ブレイク!日本刀とはどうやって作られたのだろうか。
■大人気の日本刀
ここ数年の間、日本刀が大人気だったが、映画「鬼滅の刃」が公開されると、さらに人気が高まったように思える。情報番組を見ると、子供だけでなく大人にも大人気のようだ。
日本刀は中世(鎌倉~戦国時代)に技術が発達し、世界的にも評価されている。その材料は、「たたら」という和鉄である。日本刀はどうやって作られ、どのように発展したのだろうか。
■日本にしかない良質な鉄
8世紀前半に成立した『出雲国風土記』によると、この頃から出雲国内で良質な鉄が産出しており、農耕具などの材料になっていた。平安初期には、出雲を筆頭にして、伯耆、備中、備後の諸国から鉄を朝廷に献上した記録が残っている。
鎌倉初期の出雲には高実(高貞)という刀工が存在し、14世紀半ば頃には備前系の刀工の則包(雲上)が活躍していた。その子の永則(道永)は八束郡に工房を持っていた。
出雲には、鉄を加工する技術があったのだ。尼子氏の本拠・月山富田城(島根県安来市)の麓を流れる富田川(飯梨川)では、良質な砂鉄が採集できたという。
■日本刀独特の構造
出雲国内では、能義郡、仁多郡の産地から良質な鉄が産出された。布部には竪穴式溶鉱炉の遺構があり、たたら師は木炭を用いた溶解法によって、日本刀に適した不純物の少ない玉鋼を作っていた。
日本刀のもっとも重要な作業工程は、皮鉄(硬い鉄)で心鉄(軟らかい鉄)をくるみ、硬さとしなりを出す点にある。そのためには、良質な鉄が必要だったのである。
日本刀を完成させるには、単に鉄を鍛錬するだけに止まらず、最後の研ぎに至るまで気を抜けない作業が続いた。さらに刀装具(拵え)には贅を尽くし、美の極限を追求したのである。
一口に日本刀とは言っても、時代とともに大きく進化していった。
■日本刀の発達
奈良時代以前は、まったく刀身に反りがない直刀が用いられた。これは、中国大陸からもたらされたもので、古墳から発掘されたものが多く、奈良の正倉院などに保存されている。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、直刀から湾刀(刀身に反りがあるもの)に変化した。ちょうど源平の戦いがピークとなった時代である。刀身の長さは、2尺5~6寸(75.8~78.8cm)ほどだった。以降、刀身の身幅が広くなり、肉厚になるなどし、日本刀は頑強になっていった。
南北朝時代になると、刀身の長さが3尺(90.9cm)という長大な太刀が流行した。野太刀や背負い太刀も存在したが、全体的に薄造りにするなどし、軽量化を図るようにした。
室町時代には長大な太刀が廃れ、刀身の長さも鎌倉時代のものと変わらなくなった。なお、ここまで述べてきた刀は太刀と言い、刃を下にして腰に吊るしていた。
室町時代後期から戦国時代に至ると、刃を上にして腰に吊るす打刀を用いるようになる。打刀は太刀と比較すると、刀身の反りがそれほどなく、長さも2尺(60.6cm)と短くなった。
これは戦い方の変化、また鉄砲の出現が大きく作用したと考えられる。江戸時代以降は形状が流行などに左右されたが、引き続き打刀が使われることになった。
鬼滅の刃の登場人物は、どんな刀を使っているのだろうか?