「どうする家康」、家康の母於大の方の実家水野氏とは
松嶋菜々子演じる徳川家康の母、於大の方は水野氏の出である。松平氏が三河を代表する国衆であったのに対し、水野氏は尾張南部を代表する国衆の1つだった。
於大の方は天文10年(1541)に安祥松平家で岡崎城主の松平広忠に嫁ぎ、翌年には広忠の長男・竹千代(後の徳川家康)を産んだ。
水野氏のルーツ
水野氏は、清和源氏のうち尾張源氏と呼ばれた源満政の子孫で、初代重房は知多郡英比郷小河(現在の愛知県知多郡東浦町緒川)に住んで小河氏を称し、その子重清が源頼朝に仕えて春日井郡山田荘の地頭となり、同荘内の水野(現在の愛知県瀬戸市)に住んで水野氏を名乗ったのが祖という。
実際に活動が知られるのは室町時代の貞守からで、貞守は一色氏に従っていた。応仁の乱後は重原荘(現在の知立市)に勢力を広げ、文明7年(1475)には小河城を築城して本拠とし、天文2年(1533)には忠政が刈谷城(刈谷市)も築城した。惣領は小河家で、他に庶流の刈谷家・常滑家・大高家などがあり、知多郡一帯を支配した。
於大の方
忠政は松平氏との協力関係を保ち、娘の於大の方を松平広忠に嫁がせた。於大の方は嫡男竹千代を産んだが、水野氏を継いでいた実兄の信元が織田信長と結んで今川氏と対立したため離縁となって刈谷に返された。
そして、天文16年(1547)には於大の方は兄信元の意向で、知多郡阿古居城(坂部城、現在の阿久比町)城主久松俊勝に再嫁している。
なお、桶狭間の戦い後に自立した徳川家康は、於大の方を母として迎え、その夫久松俊勝と3人の息子に「松平」の名字を与えて家臣としている。その後、於大の方は関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)まで長生きした。
その後の水野氏
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの直後、刈谷城主だった水野信近は今川氏家臣の岡部元信に攻められて討死し、刈谷家は滅亡。嫡流の信元(於大の方の兄)が刈谷領も併合して信長に仕え、織田信長と徳川家康との清須同盟を仲介した。
しかし、その信元も天正3年(1575)に武田勝頼方の美濃岩村城主秋山信友に兵糧を売ったため、信長に武田氏への内通を疑われて殺され、水野氏は一旦没落した。
ところで、水野忠政の九男で信元の弟にあたる忠重は、水野一族の元を離れて徳川家康に仕えていた。そして、天正8年(1580)には信長から信元の旧領を与えられて刈谷城で水野氏を再興。本能寺の変後は織田信雄に属し、小牧・長久手の戦後は豊臣秀吉に仕えている。
江戸時代は譜代大名となった他、多くの旗本が出ている。