【九州三国志】龍造寺隆信、驕りの果てに散る!沖田畷の戦いが紡いだ戦国の悲哀
龍造寺氏はもともと少弐氏に仕える一被官に過ぎませんでしたが、戦国時代特有の下克上の波に乗り、隆信の代には佐賀を本拠地とし肥前国を統一するまでに至りました。
元亀元年(1570年)の今山の戦いでは、大友宗麟の大軍を打ち破り、肥後や筑前、筑後、豊前の一部にまで勢力を拡大。
この頃の隆信はまさに絶頂期であり、その威風堂々たる姿は肥前一の「肥前の熊」と称されるほどでした。
しかし、天正6年(1578年)、日向国で耳川の戦いが勃発。島津義久が大友宗麟を破ったことにより、大友家は急速に衰退します。これを機に、九州は島津家と龍造寺家の二強が覇権を争う舞台となりました。
天正9年(1581年)、島津軍が北上を開始すると、隆信は嫡男の政家や義兄弟の鍋島信生を派遣し、肥後北部を攻略。
赤星親隆や内古閑鎮房といった地元の武将を屈服させることに成功します。
しかし、隆信のやり方には強硬な一面がありました。
筑後の蒲池鎮並が島津方へ通じていると知るや、一族郎党を皆殺しにするという苛烈な手段に訴えたため、各地で反発や離反を招いてしまいます。
特に筑後衆の中からは、隆信に反旗を翻す者も現れる始末でした。
天正12年(1584年)、有馬晴信が島津家に援軍を求め、これに応じた島津義久は弟の家久を大将とする5,000未満の兵を派遣します。
一方の龍造寺軍は3万の大軍を率いて島原へ進軍。圧倒的な兵力を背景に、隆信は驕慢さを隠そうともしませんでした。
鍋島直茂は慎重に島津軍を警戒し長期戦を提案しましたが、隆信はその意見を退けます。
戦場に選ばれたのは、湿地帯が広がる沖田畷。
島津・有馬連合軍は地形を最大限に活かし、防御を固めつつ、龍造寺軍を罠に誘い込む「釣野伏せ戦法」を準備しました。
こうして、両軍は3月24日の明け方、決戦の火蓋を切ります。
島津軍は初めから撤退を装い、追撃してきた龍造寺軍を狭い畷へと誘導。
突如、弓や鉄砲を乱射し、湿地に足を取られた龍造寺軍の陣形は瞬く間に崩壊していきました。
戦場での混乱は極まり、隆信の命令が行き届かない中、龍造寺軍は次々に戦死。
ついには隆信自身も首を討たれるという悲劇的な結末を迎えます。
沖田畷の戦いで龍造寺軍は壊滅。
肥前の覇者として君臨していた隆信の死は、龍造寺家の勢力に決定的な打撃を与えます。
その後、家臣の鍋島直茂が家を立て直しますが、隆信が築いた隆盛はこの戦いで失われました。
沖田畷の戦いは、勝者と敗者、謀略と驕慢が織りなす戦国史の一ページとして語り継がれています。
戦場の泥沼に散った隆信の最後を思うと、栄光の頂点にあった彼もまた、時代の波に翻弄された一人の武将であったことを感じずにはいられません。
この物語が、現代に生きる私たちにも何かしらの教訓を残してくれることを願っております。