【九州三国志】龍造寺高房、悲劇の若き主君!その儚い命と佐賀藩の移りゆく権力

龍造寺政家の四男として誕生した高房は、わずか五歳にして家督を継ぎ、肥前の地に名を掲げました。
しかしながら、豊臣秀吉の承認の下、藩政の実権を握っていたのは鍋島直茂とその息子・勝茂であり、佐賀藩は名ばかり龍造寺、実質は鍋島という、なんとも奇妙な二重構造を呈しておりました。
成長した高房は、龍造寺家の再興を胸に秘めつつ、直茂の孫娘を妻とし、江戸幕府に仕える日々を送ります。
しかし、心中の不満は次第に燻り、慶長十二年、ついに高房は思い詰めて妻を斬り、自らも腹を斬るという凄絶な事件を引き起こしたのです。
命を落とすことは叶わず、故郷に戻されたものの、再び自害され、わずか二十二歳の短い生涯を閉じられたのでございます。
その後、鍋島直茂は不快感を露わにし、政家に宛てて「お恨み状」をしたためる始末。
家臣団や縁者の石井氏からも反発を買い、龍造寺家の威信は地に堕ちてしまいました。
そして高房の死から間もなく、政家も急逝され、肥前の地は鍋島家の手に完全に渡ることとなります。
高房の遺児・伯庵は、なおも龍造寺家の復興を目指し幕府に訴え続けましたが、その願いが叶うことはついぞございませんでした。
悲哀と憤懣に満ちたこの物語は、龍造寺家の終焉を示すと共に、時代の流れの無常さを今に伝えているのでございます。