【九州三国志】沈み城・佐賀城の物語!その歴史と未完成の姿
肥前の地にそびえる佐賀城は、静けさの中に歴史の重みを宿した特別な城です。
もともと鎌倉時代から戦国時代にかけて龍造寺氏の居城として築かれた村中城を基盤に、慶長期に鍋島氏によって改修・拡張され、現在の佐賀城へと姿を変えました。
この平城は、幅50m以上の堀や土塁に守られ、平坦な地形の中で樹木に包まれるように「沈み城」と呼ばれてきたのです。
堀には多布施川の水を引き込み、外堀を水没させて敵の侵攻を防ぐ巧妙な仕掛けも施されていました。
しかしながら、佐賀城は厳密には未完成の城でもあります。
「慶長御積絵図」と呼ばれる城郭と城下町の予想図と、その後の絵図を比べると、櫓の削減や石垣の簡素化が目立っているのです。
この未完成さが、佐賀城の魅力と哀愁を際立たせています。
佐賀城の起源は、龍造寺氏がその礎を築いた村中城に遡ります。
特に戦国時代には、大友宗麟の侵攻によって城は危機に瀕し、龍造寺氏は何度も追い詰められました。
それでも、鍋島信正(後の鍋島直茂)の夜襲による逆転劇で状況を打開し、龍造寺氏は勢力を保ったのです。
しかし1584年、龍造寺隆信の死を契機に実権を握った鍋島氏が城を受け継ぎ、ついに1602年に鍋島直茂が本丸の改修を開始。1611年には天守も完成し、佐賀城はその全盛期を迎えました。
この天守は、小倉城の図面を参考に、高さ38m、外観4重、内部5階の壮大な構造を持っていました。
しかし、1726年の大火で焼失して以降、再建されることはありませんでした。
この未再建の天守が、佐賀城に「未完成の美学」を与え続けています。
明治7年(1874年)、佐賀の乱で佐賀城は大きな被害を受け、鯱の門や続櫓を除くほぼすべてが焼失しました。
現在も鯱の門には当時の弾痕が残り、乱の激しさを今に伝えています。
昭和28年には鯱の門が佐賀県の重要文化財に、さらに昭和32年には国の重要文化財に指定されました。
一方、2004年には本丸御殿が復元され、「佐賀県立佐賀城本丸歴史館」として公開されています。
公園として整備された佐賀城跡では、東堀や土塁も復元され、往時の姿を取り戻しつつあるのです。
また、二の丸には佐賀県庁や美術館、学校などが集まり、現代においても佐賀の中心地として機能しています。
佐賀城はその歴史の中で幾多の困難と変遷を経験しながら、現在も多くの人々にその存在感を示しています。
この「沈み城」の物語は、過去と現在を繋ぎ、未来に語り継ぐべき宝であると言えるでしょう。