【九州三国志】挑戦状を掲げて平野へ誘う!龍造寺隆信と神代勝利の川上峡合戦
永禄4年(1561年)の秋、川上峡にて雌雄を決する戦が行われました。
肥前の覇者たらんとする龍造寺隆信と、山岳の支配者として抗う神代勝利。
戦の始まりは、隆信の挑戦状からでした。
過去の敗北を踏まえ、山内の地形に強い神代軍を平野に誘い出す策略を巡らせたのです。
「この戦で、家の安否を定めん」。
隆信の言葉に応じた勝利もまた、「望むところ」と快諾。9月13日、両軍は川上で対峙しました。
神代軍は金敷城山を背に布陣。息子たちも分隊を率い、堅い守りを敷きました。
一方、隆信の軍勢も激戦への備えを固めます。
戦闘は壮絶そのもの。
「千騎が一騎になる」とまで評される乱戦の中、均衡を破ったのは都人来原での裏切りでした。
神代軍の新参者が隊長を斬るや、恐慌は全軍に波及。
隆信軍はこれを好機とし、宮の前大門まで攻め込みました。
戦況は一気に隆信側へ傾きます。
勝利は撤退を余儀なくされ、山内へ逃げ延びましたが、隆信は追撃を避け、山内の制圧を代官の設置に留めます。
しかし勝利はわずか数ヶ月で山内に復帰し、再び頭領の座を奪還。
最終的には隆信と和睦し、子孫を繋ぐ縁組をもって平和を築く道を選びました。
川上峡合戦は、戦の勝敗を超えた人間の策謀と執念の物語として、後世に語り継がれています。