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【うつくしき難攻不落の水の城】石田三成・真田幸村・本多忠勝・直江兼続(ほか多数)をはね返した忍城

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

戦国時代の歴史をながめると、

『織田勢3千に対し、今川勢は4万!』

『真田勢3千に対し、徳川勢は3万8千!』

・・など。

片方が、圧倒的な危機に見舞われた戦いが、いくつか存在します。

この“桶狭間の戦い”“上田合戦”では、それぞれ劣勢側が大戦果を挙げ

大河ドラマや小説など、多数の作品でも有名です。

しかし、一般において殆ど知られないものの、上記と同等・・

あるいは、それ以上の絶体絶命におかれながら

まさかの守り切りを果たした、驚くべき戦いが、関東に存在しました。

是非、これを多くの人々にも紹介したいと思います。

“なぜ、そうなったのか?”といった背景も含めて、

物語風に、わかりやすくお話します。

北条家VS豊臣家

ときは1590年。

今でいう埼玉県行田(ぎょうだ)市の一帯を、成田氏という小大名が治めていました。

彼らは戦国時代を、関東の大勢力北条家に従い、生き延びてきました。

ところが、その北条家が豊臣秀吉への臣従を拒否。

関東には、秀吉率いる大軍が、押しよせて来ます。

これに対抗するべく、北条家は成田氏にも、招集をかけました。

そうして、当主や主力の兵士たちは、決戦の地となる小田原へ参陣。

その間、留守となる本拠地の忍城(おしじょう)は、4~500名の足軽と、

城主代理の、成田長親(なりた・ながちか)が、守っていましたが・・

彼にはほとんど、戦いの経験がありません。

城兵たちはみな、淡い期待を抱きました。

「こんな小さな城、豊臣軍は無視するじゃろ。」

「ほかの北条方の城が、持ちこたえると良いのう。」

絶望的な戦力差

しかし、そんな願いもむなしく、周辺の城はあっけなく陥落し、

忍城には石田三成大谷吉継の率いる、2万を超す大軍が攻めてきました。

しかも時が経てば、他の城を落とした豊臣軍も、合流して来ます。

そして小田原の北条軍は援軍どころか、秀吉本軍との対峙で手一杯。

孤立無縁である上に、敵はどんどん増強される。

どう見ても、まさに“詰んでいる”といった戦況です。

さて、城を守る成田長親。

彼は、武勲こそまったくありませんでしたが、

親しみやすい人柄で、身分の差を超えて、地元の民衆に人気がありました。

「あのお殿様なら、協力しようかな」

そうしたお百姓たちの心情が、思わぬ展開を生じさせることになります。

もともと忍城は、周囲を広大な湿地や、近隣の川から流れ込む水で守られた

天然の要害でした。

地の利に明るい農民たちは、敵を混乱させる色々なアイディアを、長親に提案。

「おお、それは良さそうじゃのう!」

長親が、人の意見に耳を貸す性格だったこともあり、数々の作戦が実行されました。

城兵と協力して、敵軍を誘導。湿地の中に迷わせて、混乱を誘いました。

また“土”でこしらえた弾を鉄砲で、石田軍にめがけて発射。

これに殺傷力はないので「はっは、成田勢は鉄砲の玉も足りぬか!」

・・と油断させたところで、次は本当の弾を発射。

バタバタと倒れる味方に、動揺します。

兵士は本物の弾が飛んでくると分かれば、腹をくくって前進します。

しかしニセモノか本物かわからないと、かえって怖くなる・・

そうした心理を突き、攻め手を浮足立たせたのでした。

時がたつと周囲の城を攻略した、真田幸村、直江兼続、本多忠勝といった名将も合流。

攻め手は、驚異的な戦力へと膨れ上がります。

しかし、かつてない構造の城と、意表をついた策ばかり仕掛ける相手に対し、

毎回、奥深くまでは進軍できず。

まさかの苦戦を強いられる、思わぬ展開となりました。

水の城を沈めてしまえ

しかし、豊臣方も歴戦の“つわもの”揃い。

『水の守りがやっかいなら、その水で城を沈めてしまえば良い』と、

ここにきて、逆転の発想を思いつきます。※一説によると秀吉の指示

地元のお百姓を雇って、動員。

堤防を築いて周囲の大河から、忍城の周辺に水を流し込みました。

忍城・水攻めの様子
忍城・水攻めの様子

しかし、ここでまたもや、成田長親の人望が奏功。

労働者に紛れた成田側の工作員が、逆側に決壊するよう堤防に細工。

水攻めは失敗どころか、大洪水によって押し流され、豊臣方は大被害。

しかも周囲の土地はさらに“沼化”し、進軍しにくくなってしまいました。

なぜ抗い続ける?

ふつう攻城戦といえば、相手が干上がるのを待つ“兵糧攻め”もあります。

しかし忍城には、それも通用しませんでした。

こうした事態に備え、周囲に大量の魚を放流しており、それらを釣って食べるほか

お百姓が、城内で耕した作物を収穫。自給自足が成り立っていたのでした。

そうこうするうち、とうとう小田原の北条家は降伏。

この時をもって豊臣秀吉は、天下統一を達成しました。

そんな中、ただ1つ。

忍城だけが歯向かっているという、不思議な構図となりました。

その後、豊臣方は前田利家らの援軍も合流し、おそらく7~8万人以上と

とてつもない戦力で城を囲みますが、それでも忍城は陥落しません。

降伏を促す使者を送っても、応じません。

この耐久力は驚異的ですが、すでに北条家も滅亡したいま、なぜ抵抗を続けるのでしょう。

天下人に抗った武将として、後世に語り継がれたかったのでしょうか?

うつくしき難攻不落の水の城

じつは成田長親は伝説を作るどころか、最初から闘志も、そこまでありませんでした。

そちらが攻めて来たから、自分達は守っただけ・・という理屈です。

そして降伏に応じなかったのは、豊臣方が提示していた条件。

『命は保証するので、おのおの馬一頭分の荷物を持ち、城を退去せよ』

というものでした。

そんな状態で、当てもなく追い出されたら、どうやって生きて行けばよいのか?

せめて『開城後も暮らせる財産の保証を、全員に』というのが、長親の主張でした。

秀吉としては、このまま囲み続ければ、いつかは必ず落とせます。

しかし天下人が、1つの小城に手こずっている方が、威信に傷がつく状況に。

ここは器の大きさを見せ、成田長親の要求を受け入れる許可を、言い渡しました。

1590年7月、ここに忍城は開城。戦いは終結しました。

後世、攻め手の武将は、敵ながら見事な相手だったと、評価したと伝わります。

唯一無二の戦いぶり

世にいう“忍城の戦い”は、もし成田長親が、戦いに精通した人物であったら

名将たちを相手に、かえって戦術で敗れていた可能性が高いです。

自分にはとても、強敵に打ち克つチカラはない。

それを自覚していたからこそ、皆のアイディアが必要となって、あらゆる意見に耳を傾けました。

そして実際に採用し続けたことが、全員に“これは自分達の戦いなんだ!”という意識を、芽生えさせました。

「もっと何かできないか?」そんなアイディアの数々は、名将たちでさえ

経験したことがない戦い方となり、その意表を突き続けました。

これは現代の、会社や店舗の経営で、成果を上げるチーム作りにも、

どこか共通しているように感じられます。

・・この日本史上、稀に見る戦いですが、映画「のぼうの城」や小説「水の城 いまだ落城せず」

といった作品でも、題材となっていますので、

ご興味のある方は是非いちど、ご覧になってください。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』■鬼滅の刃・ドラゴンボールZのファン

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