樋口尚文の千夜千本 第210夜『彼方のうた』(杉田協士監督)
決して完成することのないパズルのピースのように
よく人生の一断面を切り取った作品という言い方をするけれども、映画として実りあるかたちで人生の一断面を切り出すのはなかなか難しい。実際の人生でわれわれが味わうところの出会いの不安や驚きを、映画という虚構に鮮やかに翻案することは容易ならぬことだからだ。ところが本作は、その一断面の切り出し方の妙において、稀有な成果を見せている。終始物憂い表情の中村優子はなぜそのような雰囲気であり続けるのかを説明されるわけでもなく、また彼女は自分を気にして近づいてきたヒロインの小川あんをいきなり自宅に呼んでオムレツをふるまうのだが、これとてなぜそこまで親近感を抱いたのかもよくわからない。
そして次に眞島秀和が小川あんによってかつての出会いの記憶を呼び覚まされる時、眞島は嗚咽でもしかけたような表情をする。ひょっとするとこの静謐な作品で人物の感情が最も昂ったのはこの瞬間であったかもしれないのだが、その表情半ばで映画はさらりと別の断面に飛ぶ。あるいはワークショップでデッサンにいそしむ婦人がなぜか小川あんに「なぜ私を見るの」と食ってかかって不意の緊張を醸すのだが、これもいったい何が彼女をそうさせたのか判然とせぬまま通り過ぎる。こうした物語をなすような、なさぬような間合いの展開のなかで、たまさかカフェに集ってきた多彩な客たちのように、今ひとつ何者なのかわからない映画への「参加者」が加わってゆく。もちろんいずれの素性もつまびらかにされないのだが、こうした「参加者」はいったい何者なのか、何をしでかすのかという興味につなぎとめられながら、いつしか映画を観終えている。
映画の虚構性を毅然と剥いでゆくツァイ・ミンリャンのような例もあるが、本作に漂うのはそういった厳格さとは真反対の緩やかさ、軽やかさであって、一見最低限の数の俳優によるミニマルな画づくりではあるが、それが志向するものは豊かな世界の手ざわりである。はしなくも劇中のワークショップでも劇映画が撮影されていて、どうやらそれはオーソドックスな脚本に基づくドラマのようだ。そしてアマチュアの彼らはその試写を観ながら、身のまわりの日常といつも出会う現実の人びとのありさまがドラマという虚構に収斂されることに感動する。だが、本作自体はその撮影過程も、試写される完成作も、完成せぬパズルのピースのようにとらえてみせ、そのまとまらなさ、わからなさにこそ世界を見る面白さがあるのだと実践してみせるのだった。
こういうむき身の世界に身を置く難しさを、小川あんも中村優子も眞島秀和もみごとに乗り越えている。俳優という職業人は何かくどい演技をやってみせないと安心できない性(さが)なので、こういう「ただそこにいればいい」という注文ほど彼らを不安にさせるものはないのである。