「どうする家康」、秀吉に直言した浅野長政のルーツと立ち位置
8日の大河ドラマ「どうする家康」では、鶴松の死去や自らの老いなどで言動のあやしくなった秀吉に対して、名護屋城で浅野長政が直言して取り押さえられる場面が登場した。
これは『常山紀談』に掲載されている逸話で、同書には秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際に、長政が秀吉に向かって「殿下此年月の御振舞昔に替りて候。古狐の入替りたると存ずるなり」と言い放ち、秀吉が激怒したとある。
さすがに秀吉に対して直接「最近おかしい」とは言いづらく、「最近振る舞いがおかしいのは、きっと古狐が憑いているからだろう」と狐のせいにして諫めたものだ。
とはいえ、秀吉に対してここまで言える武士は他にはいない。その背景には長政の家系による立ち位置があった。
浅野氏とは
浅野氏は美濃国の武士で清和源氏土岐氏の庶流である。鎌倉時代、土岐光衡の子次郎光行が美濃国土岐郡浅野村(現在の岐阜県土岐市肥田町浅野)に住んで浅野氏を称したのが祖で、光行は幕府の御家人である同時に後鳥羽院の西院の武士でもあった。
光行は承久の乱では朝廷方について、大井戸渡(現在の岐阜県可児市)で鎌倉幕府軍と戦ったが、のちに許された。その後嫡流の光定は土岐氏に復し、光行の子国衡と弟光時の子孫が改めて浅野氏を称したという。
浅野長政のルーツ
さて、長政はこの美濃浅野氏の末裔と称しているが確証はない。
もともとは尾張国丹羽郡浅野(現在の愛知県一宮市)同地の小土豪で、浅野長勝の時に織田信長に仕えたことで発展の足がかりを得た。
長政は長勝の甥で、跡継ぎのいない長勝の婿養子である。その時、浅野家には杉原家から養女として来ていたねね(のちの北政所)もいた。長政は長勝の娘と結婚したことから、長政と秀吉は妻同士が姉妹という極めて近い関係にあった。
こうしたことから長政は秀吉に従い、秀吉の出世にともなって累進、のちに五奉行の一人に抜擢されている。
つまり、相婿という近い身内だからこそ言えた発言で、他の武将であれば許されることもなかったであろう。
その後の浅野氏
長政は秀吉の死去後家督を嫡男幸長に譲り、自らは引退して常陸に住んだ。
関ヶ原合戦では、長政・幸長ともに家康方につき、江戸時代嫡流は広島藩42万石余の藩主となった。元禄赤穂事件の赤穂藩主浅野内匠頭も子孫である。