承久の乱勃発!三浦義村が弟・胤義の使者にした「塩対応」
承久3年(1221)5月19日、京都守護の伊賀光季が派遣した使者が、鎌倉に到着します。その使者は「後鳥羽院が兵を集めている」ことを鎌倉幕府に伝えます。
同日の午後には、親幕府の公卿・西園寺公経の執事が遣わした使者が鎌倉に到着。「伊賀光季が、既に官軍により攻め殺されたこと。北条義時を討てという院の命令が諸国に伝えられていること」という衝撃の内容が伝えられたのです。
義時追討の院宣(上皇・法皇の命令により院庁の役人が発給する文書)は、関東にももたらされていました。官軍方の藤原秀康の従者・押松丸が院宣をもたらしたのですが、あえなく鎌倉で捕縛。院宣は幕府方に取り上げられたのです。
官軍に加わった在京中の三浦胤義は、兄の三浦義村に書状を送ります。そこには「朝廷の命令に従って、北条義時を征伐せよ。褒美は望みに任せる」との内容が記されていたようです(『吾妻鏡』)。
しかし、義村は弟からの使者を相手にせず、追い返してしまいます。義村は、勧誘の書状だけ持って、北条義時のもとを訪れるのでした。その上で、義村は「弟の反逆には味方しない。貴方に忠節を誓う」ということを義時に伝えるのです。
義村には、幕府に付くか、官軍に付くかの二択があったわけですが、幕府に付くことを選んだのです。その対応は見事と言えるでしょう。