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【戦国こぼれ話】出雲尼子氏の家臣・山中鹿介が自ら「七難八苦」を望んだのは史実か。その驚くべき真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
山中鹿介は、三日月を信仰していた。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 「清酒発祥の地」の兵庫県伊丹市鴻池地区では、山中鹿介にちなんで「鴻池 親子酒」を発売した。ところで、山中鹿介といえば、自ら「七難八苦」を望んだ変わった人物として知られている。どんな人だったのか?

■山中鹿介とは

 山中鹿介(?~1578)は、出雲国尼子氏の重臣として仕えた武将である。美男子であったといわれ、「三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑」がトレードマークだった。

 鹿介は武勇に優れ、「尼子三傑」(「尼子三勇」)としても知られている。ある日の夜、三日月に「戦功を挙げたい」と祈ったところ、その通りになった。以降、鹿介は三日月を信仰するようになったという。

■尼子氏の没落

 天文から永禄初年にかけて、尼子氏は中国地方で有数の大名に成長するが、安芸国毛利氏の台頭とともに衰退が著しくなる。特に、永禄3年(1561)に尼子晴久が亡くなって以後は、厳しい状況が続いた。

 永禄9年(1566)、尼子義久は月山富田城(島根県安来市)に籠城の末に毛利元就に降伏し、事実上、尼子氏は滅亡する。戦後、尼子氏旧臣のなかには、毛利氏の配下に加わる者もあった。

 しかし、義に厚い鹿介は、決して主君を見放さなかった。鹿介は困難に屈することなく、三日月に「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と祈り、尼子氏再興を悲願としたのである。

■逸話の真偽

 実はこの話、小瀬甫庵『甫庵太閤記』が三日月に祈る鹿介像を示したことに端を発する。江戸時代になると、頼山陽が漢詩で鹿介を詠み、その影響から史実か否か疑うことなく、こうした鹿介像が独り歩きした。

 昭和11年(1936)、鹿介が国定教科書の「三日月の影」で紹介されると、「忠君の士」として賞賛された。第二次世界大戦が勃発すると、主君のために命懸けで戦う鹿介は、さらに持ち上げられたのだ。

 しかし、戦後の平和な時代になると、鹿介への熱狂ぶりはすっかり冷めてしまい、まったく顧みられなくなった。ある意味で鹿介にとって不幸だったのかもしれない。

■鹿介の最期

 尼子勝久を擁立した鹿介は尼子氏再興に奔走し、一時は出雲を占拠するほどの勢いを見せるが、その後の戦いで毛利氏に大敗を喫した。再び尼子氏と鹿介の苦難がはじまったのだ。

 鹿介は織田信長を頼り、天正5年(1577)に羽柴(豊臣)秀吉に従って、上月城(兵庫県佐用町)攻めに出陣して勝利した。その軍功により、同城の守備を任される。

 しかし、翌年に毛利氏らの軍勢に包囲され、上月城は7月に落城した。秀吉は鹿介らを救おうとしたが、信長の命によって移動し、見殺しのような形になったのである。

 落城後、勝久は自害し、鹿介は阿井の渡し(岡山県高梁市)で殺害される。尼子氏の衰運に際して、自身を顧みず生死をともにした鹿介の義の態度は、のちに多くの人々から称賛されたのである。

■まとめ

 戦前は熱狂的に支持された鹿介。それは、ある意味で創作に基づく逸話に支えられたものだった。鹿介の正しい評価をするには、実証的な伝記の研究が必要だろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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