『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』の著者が予言していた日本の没落
12月20日に『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』を書いたエズラ・ボーゲル博士が90歳で亡くなった。ボーゲル博士はハーバード大学教授で中国問題の研究者だったが、1979年に『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』を出版し、日本で70万部を超える大ベストセラーとなった。
日本の高度経済成長の要因を分析した本だが、博士は日本人の学習意欲や読書量の多さに注目し、米国人にそれを教訓とするよう促している。世界一の経済大国である米国が日本を見習おうというのだから、日本人はこの本によって自信を与えられた。
しかしボーゲル博士は日本をただ賛美していたわけではない。私は博士から日本はまもなく没落するという予言を聞いた。1980年の秋ごろだったと思うが、博士が日本を訪れた際、直接お目にかかって2人だけで話をする機会に恵まれた。
場所は博士が泊まっていた東京六本木の国際文化会館だった。ラウンジでお会いしたのだが、博士が最初に私に言ったのは「ジャパン・イズ」ではなく「ジャパン・アズ」だということである。
つまり博士は「日本が一番」と断定しているわけではなく、米国民を発奮させる目的で「日本には一番と思えるところがある」と書いたのだと言う。それまで欧米諸国から「日本人はエコノミック・アニマル」と蔑まれていたから、日本人は自尊心をくすぐられたが、実は米国民に刺激を与え奮起させる目的の本だったのだ。
ただ博士は日本には優れたところがあると言い、それは日本は階級社会でないことだと言った。その例として取り上げたのが大平正芳総理と成田知巳社会党委員長の比較である。2人とも同じ香川県の出身で同世代だ。しかし2人の人生は対照的である。
大平は貧しい農家の生まれで、経済的に恵まれなかったため、苦学して現在の一橋大学に進んだ。官僚になる気はなかったが、同郷の大蔵次官に挨拶に行くと、即決で大蔵省に採用される。そして役所の先輩である池田勇人に誘われて政界入りし、田中角栄内閣の外務大臣として日中国交回復に貢献、田中の全面支援で1978年に総理大臣に上り詰めた。
一方の成田は、父親が市会議員で恵まれた境遇に生まれ、東京帝国大学に進学した秀才である。卒業後は三井鉱山に入社するが、戦後2回目の総選挙に社会党から立候補して初当選。一時は江田三郎の構造改革理論に共鳴するが、左派の社会主義協会とも近い立場を取り続け、1968年から77年まで社会党委員長を務めた。
ボーゲル博士は、貧しい農家に生まれた大平が、奨学金を得ながら苦学して大学に進学し、官僚となり、与党政治家となって、ついには総理大臣に上り詰めることができたケースを称賛した。その一方で、恵まれた生まれの成田が、社会主義思想を持ち、社会党委員長になったことにも注目する。そこに階級社会ではない日本の特質を見ていた。
そしてその柔軟さが日本の強さの秘密だと言った。ところがそれはまもなく終わる。まもなく日本にも階級社会が訪れると予言したのである。その原因を博士は「偏差値教育の導入にある」と言った。
「偏差値」は学力試験の志望校を判定するために導入された。模擬試験の得点などから各学校の「偏差値」が算出され、合格可能性が判定されて、生徒は教師から決められた学校の試験を受ける。そうなると小さな頃から将来の進路が決められてしまいかねない。
金持ちは小さなうちから子供の教育に資金をつぎ込み、エリートコースに乗れるようにする。そういう子供だけがエリートの道を歩み出せば、大平と成田に見られた人生航路はなくなる。そうなると日本の強さも薄れるというのである。博士は「日本は必ず没落する」と言った。
文部省担当の記者に「なぜ偏差値教育が始まったのか」を聞くと、息子や娘の「15の春を受験勉強で灰色にしたくない」という母親たちの声が教育現場を動かしたのだという。要するに「浪人生活を送らせたくない」という親心が、必ず合格できる学校を受けさせるために「偏差値」を必要にしたというのだ。
それはあまりにも近視眼的な考えではないかと私は思った。また自民党と社会党が対峙する当時の日本では、日本は階級社会でないと考える人間もいなかった。しかし私はボーゲル博士の考えに共鳴し、その予言が耳に残った。
それから5年後の1985年、高度経済成長の結果として日本は世界一の金貸し国となり、米国が世界一の借金国になった。明治以来の日本は「欧米に追いつき追い越せ」を合言葉に、「坂の上の雲」を目指して坂道を上ったが、官僚たちはついに日本が「坂の上の雲」にたどり着いたと考え、それを自分たちの手柄と考えた。
世界一の借金国となった米国政府は、ニューヨークのプラザホテルに先進5か国の蔵相を呼びつけ、ドル安にするため為替レートの変更を迫った。急激な円高は日本の輸出産業を直撃し、日銀は金利を下げて衝撃を和らげようとする。
そして日本の輸出攻勢を抑えようとする米国が日本に内需拡大を迫ってくると、公共事業に予算が投じられ、役所が保養所経営に乗り出すなど官業ビジネスが横行するようになった。
「坂の上の雲」にたどり着いたと考える霞が関はその分け前に預かろうとする。それまで大蔵省の役人が銀行の頭取に天下るケースはあったが、それ以外の役所に天下りはなかったという。ところがすべての役所が一斉に天下り先を確保し始める。行政指導を受ける立場の民間企業は役所の言うことを聞くしかなかった。
そして世界一の金貸し国日本には貿易黒字の収入と金利収入が流れ込む。世界中からマネーが流入して株価と不動産価格を押し上げ、日本経済にバブルが起きた。低金利のため本来の銀行業で儲けを出せなくなった銀行が、不動産投機に走り、地上げを通じて闇社会とつながり、闇社会に首根っこを押さえられて、不良債権が積みあがった。
日本経済にとって銀行は「血管」と言われる。戦時中に作られた「間接金融」の仕組みが日本経済を支えていたからだ。「間接金融」とは、企業が株式市場で資金を調達するより、銀行から金を借りて事業を起こすことを言う。その結果、メインバンクとなった銀行は企業の経営を監督する。その銀行を大蔵省が監督する。
つまり国家の方針が、大蔵省を通じて銀行に行き渡り、その銀行から企業に及ぶ。こうして日本経済は上から下までが一体となって突き進む。それが戦争を遂行するために作られ、そしてその構造は戦後も残った。だから銀行は日本経済の「血管」だった。その「血管」がバブル崩壊と共に潰れていく。
日本がバブルの頂点であった1989年(平成元年)の、企業の時価総額ランキングを世界で見れば、ベストテンに7つの日本企業がランクインしている。そのうちの5つが銀行である。日本興業銀行(2位)、住友銀行(3位)、富士銀行(4位)、第一勧業銀行(5位)、三菱銀行(7位)だが、今や日本の銀行はまったくランクインしていない。
同じ年のベスト50に日本企業は38社あったが、30年後の2019年には43位にトヨタが1社いるだけだ。平成という時代はひたすら日本経済が坂道を転がり落ちた時代である。ところが奇妙なことに転落の一途をたどっているという危機感があまり国民から感じられない。
また1985年に私は政治記者をしていたが、その頃田中角栄氏や竹下登氏から戦後日本の政治構造について驚くべき話を聞いた。日本に野党は存在しないという話だ。吉田茂を原点とする保守本流は、米国に日本の防衛を委ね、持てる力をすべて経済に注ぎ込み経済復興を図る政策をとった。
米国からの軍事要求をはねのけるため、憲法9条を守ることを野党に主張させ、国民にもメディアを通してその考えを浸透させ、米国の軍事要求が強くなると選挙で社会党政権が誕生すると言って米国をけん制した。冷戦構造がある限り米国は社会党政権の誕生を認める訳にはいかない。
しかし実は社会党は選挙で政権を取らないよう、過半数を超える候補者を擁立していなかった。全員が当選しても政権は取れない。ところがメディアはその真相を暴かない。暴かないどころか自民党と社会党は激突していると報道し、社会党政権が誕生する可能性をほのめかす。国民も騙されたが米国もそれに騙された。
この「巧妙な外交術」によって戦後の高度経済成長は達成されたと竹下登氏は言った。しかしそれは冷戦構造がなくなれば通用しない。私は1989年に冷戦が終わった時、そのことをまず思った。護憲だけを叫ぶ野党と米国に防衛をお任せする与党で、冷戦後の世界は生きられないと。
案の定、冷戦が終わると米国は日本に対する経済要求と軍事要求の両方を強めてきた。さらには日本社会の成り立ちや慣習にも口を挟むようになる。米国と同じ構造に改革しろと要求してくる。そしてそのためには憲法9条を守らせた方が米国にとって都合が良い。つまり日本を自立させなくした方が経済も軍事も要求しやすいと考えている。
ところが日本国民には冷戦が終わったという意識もなければ、これまでとは異なる考えに立脚しないと生きていけないという考えもない。高度経済成長がうまくいきすぎたせいなのか、国民はその余韻に浸っているだけに見えて仕方がない。
確かに高度経済成長期に蓄積した富はある。中国に抜かれたとはいえ第三位の経済大国だ。まだ余裕はあると言えるのかもしれない。しかし私の耳にはボーゲル博士の言葉が残っている。日本は階級社会化するという予言だ。
一億総中流と言われた社会があっという間に格差社会になり、自民党の総理候補者は軒並み世襲議員になった。その中で例外的に菅義偉氏が総理に就任し、一時は高い支持率を誇ったが、コロナ対応に失敗すると一気に支持率を急落させ、やはり「叩き上げ」では総理は無理だと言われるようになった。
ボーゲル博士が言うように、日本は階級社会化してその特質を失い、成長する力も削がれていくのだろうか。ボーゲル博士の死去の報に接して40年前に耳に残った言葉が蘇り、それから私が見てきた出来事に思いを巡らしているうち、夕陽が沈む光景を眺めているような気持になった。