岩政大樹選手のプロサッカー選手引退に寄せて。
岩政大樹選手がプロサッカー選手の引退を自身のブログで発表しました。
東京学芸大学から鹿島アントラーズに入団したのが2004年。奇しくも自分が創刊に携わったサッカー専門新聞「エル・ゴラッソ」がスタートした年で、自分の記者としての成長を語る上でも欠くことができない存在でした。
鹿島アントラーズで初めて単独インタビューをさせてもらった時に、2003年に優勝したユニバーシアード(大学サッカー代表選手の世界大会)の話になって、その時の情景を詳しく聞いた時に、ちょっと強面の表情が緩んで、喜んで語ってくれたのを昨日のことのように思い出します。
実は自分は現地で大会を取材していたわけでもなんでもなく、インタビュー前に映像や情報を仕入れていったにすぎないのですが、その時の経験が、選手に取材する時には後付けの二次情報でもいいから、できるだけ調べて頭に入れていくべきだという、今となっては記者として当たり前のことを学ばせてくれたと思っています。
それから短い期間ながら「エル・ゴラッソ」の番記者として鹿島アントラーズを継続的に取材する機会があり、試合後にはだいたい新人だった内田篤人選手か岩政選手をつかまえて話を聞いていたのですが、多くの選手は敗戦後には口が硬くなりがちなところ、岩政選手は冷静に詳細に敗因を分析して語ってくれたことで、記者としても助けられました。
あとで知ったのですが、負けた時はやはり他の選手と同じくものすごい悔しい。でも、その悔しさはロッカールームに置いて、そこからポジティブに切り替えると。何か悪いことがあれば、それは次のいいことにつながっているという前向きな思考が試合後の対応にもリンクしていたのだと思います。
鹿島アントラーズでの J1リーグ三連覇や日本代表でのプレーなど、取材で現場に立ち会った、あるいはテレビで観た名シーンを思い出したらきりがないですが、ファジアーノ岡山での昇格プレーオフのゴールは鮮明に蘇ってきます。そしてタイまで足を運んでテロ・サーサナの試合を観に行った時には「なんでまた?」と不思議そうな反応をしながらも、その場で30分ぐらい話してくれて、東京学芸大で岩政選手とバックラインを組んでいたこともある「エル・ゴラッソ」の寺嶋朋也編集長に相談して、インタビューを強引にねじ込んだ紙面がかなりの反響を受けました。
そのインタビューで一番印象的だったのが「体がちゃんと動けるうちに海外の環境に身を置きたかった」という言葉。その経験が必ず引退後に生きてくると。海外の環境に身を置くこと。それはサッカーのレベルに関係なく難しい。生活環境はもちろん、思考のギャップで自分の思い通りにならないとか、そう言った個人にとってある種の理不尽な環境に身を置かないと見えてこないことがある。それはJリーグではいくらレベルの高いサッカーをしているクラブでも味わえないものだというのは記者の立場で考えても想像に難くないことです。
今はご縁があり「スカサカ!ライブ」という番組でご一緒させていただく機会が多くありますが、現役のラストプレーに立ち会えなかったのはいざ聞くと心残りです。基本的に自分はどれだけ取材している選手とも適度な距離を置いて、フラットにパフォーマンスを評価するスタンスなので、一緒に仕事していても接し方は少し難しかったですが、これからは遠慮なく「岩政さん」と呼ぶことができます。
本当にお疲れ様でした。そしてこれからの活躍を期待するとともに、同じサッカーファミリーの一員として、ともに楽しく頑張って行きたいと思います。
これからも「No Pain No Gain」!(でも「No Joy No Gain」も多めで。笑)