瀬名と面会した唐人の医師・滅敬とは、何者なのだろうか
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名が滅敬という唐人の医師に会っていた。滅敬とはいかなる人物なのか考えてみよう。
滅敬は「げんきょう」または「めっけい」と読む(ドラマでは後者)。滅敬に関しては、『三河物語』、『三河後風土記』、『岡崎東泉記』といった二次史料に書かれているので、以下、それらの史料に導かれつつ、考えることにしよう。
大河ドラマでは、滅敬を「唐人の医師」としていたが、甲州牢人で医師だったとする史料もある。当時、牢人になった武将の中には、医術を持つ者がいた。むろん、高度な医療技術ではなく、経験的に知りえた薬草などの処方を行っていたと考えられる。
ことの発端は天正7年(1579)、松平信康の妻・五徳(織田信長の娘)が信長に12ヵ条の訴状を送ったことである。この訴状には、瀬名が甲州牢人の滅敬と会っていたことが記されている。瀬名は子の信康ともども、武田方に内通していたという。
一方、天正3年(1575)の大岡弥四郎事件において、すでに瀬名は武田方と通じていたという説もある。当時、甲斐国の口寄せ巫女が岡崎(愛知県岡崎市)にやって来て、瀬名と密会していた。口寄せ巫女の売りは、神託だったようである。
その際の口寄せ巫女の神託は、①五徳を武田方に通じさせること、②瀬名が勝頼の妻になること、③信康を勝頼の嫡男に迎え、天下を取らせること、の3点である。しかし、あまりに荒唐無稽すぎて、受け入れ難いといわざるを得ない。
また、瀬名の屋敷には、唐人の西慶なる医師が出入りしていた。西慶は信康配下の家臣団を説き伏せ、その結果、大岡弥四郎が武田勝頼から所領を与えられることを条件として決起したが、これは失敗に終わった。弥四郎は処刑されたのである。
滅敬については、良質な史料に記述がなく、瀬名との密会が事実なのか疑わしい。加えて、かなり芝居がかった話なので、十分な検討が必要であると思われる。