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【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦で西軍のキーマンとなった大谷吉継。眼病を患っていたのは事実か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
敦賀半島と若狭湾。大谷吉継は、この地を支配していた。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 9月15日と言えば、慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原合戦である。今回は、関ヶ原合戦で西軍のキーマンとなった大谷吉継の生涯を追うことにしよう。

■大谷吉継とは

 大谷吉継は、永禄2年(1559)に誕生した。ところが、その前半生は多くの謎に包まれている。

 まず、出自に関しては、豊後の戦国大名・大友義鎮(宗麟)の家臣・大谷盛治の子といわれているが、出身地を近江とする説もある。

 通称は紀之介といい、名は吉継(吉隆とも)である。むしろ、通称として用いられる「刑部」のほうが有名かもしれない。吉継は名の通った武将なのだが、その出自すらよくわからないのだ。

■豊臣秀吉に仕える

 当初、吉継は豊臣秀吉に小姓として仕え、信任を得たといわれているが、いつ頃から仕えたのかは判然としない。

 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦い(秀吉と柴田勝衛の戦い)に出陣し、「賤ヶ岳の七本槍」に劣らないほど活躍した。

 同年以来、吉継は秀吉の側近として副状(書状に添えられる説明の文書)を発給するなどし、常に秀吉の身辺に仕え、諸大名との連絡役を務めていた。

 天正13年(1585)には従五位下・刑部少輔に叙されており、それゆえに「刑部」と称されたようである。翌年の九州征伐では、石田三成と兵站奉行(武器や兵糧の輸送)を担当した。

■大活躍した吉継

 太閤検地が実施されると、三成らとともに検地奉行などを務めている。以後も三成とは、政権内部で友好な関係を保っていたことが知られている。

 軍事方面よりも官僚的な側面で手腕を発揮した吉継は、天正17年(1589)に越前敦賀(福井県敦賀市)に5万石を有する大名となった。

 以後も秀吉に従って各地に転戦し、翌年の小田原(北条氏)征伐、続く奥州征伐にも出陣し、平定に尽力した。

 文禄元年(1592)に勃発した文禄の役では、三成とともに船奉行を担当し、また朝鮮部隊の督励を担当し、その翌年の明軍との和平交渉にも尽力した。

 以上のとおり、吉継の生涯は順風満帆であったが、やがて暗雲が垂れ込める。

■眼病を患った吉継

 文禄2年(1593)10月を境にして吉継の副状は見られなくなった。翌年には眼病を患い、養生していたことが判明する。眼病の詳細については、不明である。

 以降、吉継は豊臣政権の中枢から離脱し、代わりに子の吉治が出仕していたようである。慶長2年(1597)の段階において、まだ吉継の病状は好転していなかった。

 吉継がハンセン病であったか否かは別として、少なくとも眼病により思わしい状況でなかったことは確かである。こうして、吉継はしばらく政治の表舞台から姿を消した。

 以後、吉継は治療に専念し、吉治が代わりに仕官していた。しかし、吉継の病状は次第に改善しており、慶長3年(1598)10月頃にはかなり回復していたようである。

 つまり、関ヶ原合戦を控えた吉継は、病み上がりだったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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