開店わずか4ヶ月の「らぁ麺や 嶋」が頂点に輝いた理由
秋は例年ラーメン界が騒がしくなる季節だが、今年は新型コロナウイルスの影響で2大イベントといわれる「東京ラーメンショー」と「大つけ麺博」が中止となり、寂しい秋となっている。
一方、毎年10月に発表される賞レース「TRYラーメン大賞」は例年通り行われた。著名なラーメン評論家が1年かけて食べ歩き、そのなかから選び抜いた名店をランキング形式で紹介した“業界最高権威”ともいわれる賞である。今年の「第21回 TRYラーメン大賞 2020-2021」では、「らぁ麺や 嶋」が新人大賞を受賞した。新人大賞は19年7月~20年6月にオープンしたお店が対象となっている。
都営大江戸線の西新宿五丁目駅から徒歩5分、国道14号線に「らぁ麺や 嶋」の小さな看板が見えてくる。今年の6月10日にオープンし、開店からわずか4ヶ月で栄冠に輝いた。
こちらが「特製醤油らぁ麺」。豚チャーシュー3種類(バラ、肩、モモ)、鶏チャーシュー、肉ワンタン、エビワンタン、味玉とバラエティに富んだ具材だが、醤油のふくよかな旨味の広がるスープがそのすべてを受け止める。さらに、柔らかく茹でたしなやかな麺がスープを纏うことでより一体感を増す。直前に炭火で炙るチャーシューの柔らかさと香りは特筆に値する美味しさだ。
店主の盛島博志さん(39)は東京都中野区生まれ。昔からラーメンが好きで、小学校の頃から休みの日には1000円札を握りしめてラーメン屋に行くような少年だった。高校に入ると近所のラーメン店でアルバイトを始める。
卒業後、飲食業界を転々とするが、最終的にラーメンの世界に飛び込むことを決意する。
麺の代わりにタオルを使って麺上げの練習
「ラーメンの食べ歩きを長く続けて来た中で、自分がいちばん好きな方向性のラーメンを体現してみたいと思ったんです。『支那そばや』のような醤油の旨味が溢れるラーメンですね」(盛島さん)
「支那そばや」は“ラーメンの鬼”と呼ばれた故・佐野実さんが1986年に創業したお店だ。スープ、麺だけでなく、具材・器・製法などすべてにこだわり抜き、日本の淡麗系のラーメンの礎を築いたお店としても有名な存在である。
「支那そばや」は当時、従業員を募集していなかったが、盛島さんは皿洗いや雑用でいいからやらせてほしいと懇願。何とか承諾を得たのち、新横浜ラーメン博物館(ラー博)にあった支店(現在は閉店)のホールの仕事からスタートする。この時既に37歳だった。
「昔のテレビで佐野さんが使われていた機材がそのままあって、歴史が繋がっていることに感動しました。先輩たちから佐野さんの遺されたラーメンに対する思いを聞けるだけでも嬉しかったんです」(盛島さん)
「支那そばや」では週2~3日のアルバイト生活で、休みの日は東中野の「かしわぎ」でも修業をしていた。
何とか「支那そばや」のラーメン作りに携われないかと、盛島さんは事あるごとに「麺上げの練習をさせてください!」と先輩たちに言っていた。盛島さんのあまりのしつこさに、麺の代わりにタオルを使って練習をさせてくれるようになった。壊れた平ザルをもらい、家でも猛練習する日々が続いた。
ある日、店のまかないを作る時、盛島さんが麺上げの練習の成果を見せられるチャンスが訪れた。盛島さんの成長に驚いた先輩たちは「じゃあやってみるか?」と鶏ガラや野菜など食材についても教えてくれるようになり、少しずつラーメン作りに携わらせてもらえるようになった。
盛島さんはラー博のお店が閉店する頃には、麺上げまですべてを任されるようになり、その頃には一人前のラーメン職人になっていた。
休みの日に、独立に向けて事務所に食材の勉強に行くと、「支那そばや」の代表で故・佐野さんの奥様であるしおりさんが「マスター(佐野実)の有田焼の丼を使って営業するつもりなら、同じ丼で試食しないと味の伝わり方が変わってくるでしょ」と言い、丼をプレゼントしてくれた。
看板や麺箱の筆文字は…
ラー博のお店の閉店を機に盛島さんは退職し、いよいよ独立に向けて動き出す。
独立に向けては、しおりさんが多方面で助けてくれた。ラーメンの味作りや店作りまでしおりさんのアドバイスなくしては開店にこぎつけられなかったという。試作段階から何度も味見をしてもらい、味のブラッシュアップを図っていった。
「らぁ麺や 嶋」という屋号もしおりさんと一緒に決めた名前だ。
「しおりさんがタレを入れる壺をプレゼントしてくださるということになりまして。『そこに店名を入れたいと思うんだけど、店名は決めたの?』と言われて、まだ決まっていなかったので一緒に考えていただいたんです。
『盛島』の『島』を、お店っぽく『嶋』の字にして店名にしようということで決まりました」(盛島さん)
店の看板や麺箱に書いてある「らぁ麺や 嶋」の筆文字はしおりさんによるものだ。この文字を見ながら毎日ラーメンを作っていると、気が引き締まるという。
「こんなにラーメンのことを考えたことがないというぐらい考えました。試作している時は楽しかったんですが、それがだんだんと違う思いに変わっていきましたね。
『支那そばや』にこんなにもお世話になり、開店の花まで出していただき、これでお客さんにガッカリさせたら本当にマズいことになると、ワクワクが重圧に変わっていったんです」(盛島さん)
食材の旨味を複合的に重ね、バランスを取りながら最大限の美味しさを追求する「支那そばや」イズムを継承しながら、盛島さんは自分のラーメンをどんどんブラッシュアップしていった。
具材のバリエーションを増やせば、スープも自ずと変化させざるを得ない。足し算をしたら今度は引き算、その繰り返しだ。
心のこもった接客の理由
筆者が7月に初めてお店にお邪魔した時、ラーメンの美味しさはもちろん、盛島さんの接客の丁寧さにとても驚いたのを覚えている。お客さん一人ひとりに頭を下げる心からの接客は感動に値するものだった。
「自分の作っているものにまだまだ自信がないからです。ラーメンがまだ半人前な中で、自分が最大限できることは接客だけです。どんなに忙しくてもきちんとおもてなしをする。お待たせした分、しっかりと頭を下げる。それを徹底しています。『支那そばや』の名前が出ている限り、絶対に失礼なことはできません」(盛島さん)
「支那そばや」の名に恥じぬよう、美味しいラーメンを作り、お店を続けること。それがせめてもの恩返しだという。
ここまで心の入ったラーメンが、開店からわずか4ヶ月のお店に存在することは奇跡といっていい。
※写真はすべて筆者による撮影