遂に厚労省が動いた、奇病「バク」と人々の戦い
人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。
日本でも八丈小島ではバクと呼ばれている奇病が蔓延しており、多くの島民を苦しめてきました。
この記事ではバクとの戦いの軌跡について紹介していきます。
遂に動いた厚生省
1957年、佐々を中心とする伝研のチームは、八丈小島でのフィラリア症駆除に関する研究結果を発表しました。
この論文では、フィラリア症の流行を止めるためには、感染者からの寄生虫駆除や媒介する蚊の駆除が重要であり、これらの対策を同時に行うことが求められると結論づけています。
八丈小島での実験では、スパトニンによる寄生虫駆除、蚊の天敵の導入、DDT散布による蚊の駆除が行われ、一定の成果を上げました。
しかし、これらの対策は一時的な効果にとどまり、フィラリア症の根絶には定期的な駆除の繰り返しが必要であることが明らかとなったのです。
こうした試みが評価され、八丈小島のケースは、日本各地で実施されるモデルケースとなりました。
しかし、離島での継続的な治療や駆除活動には限界があり、佐々は行政に対策の主導権を委ねる必要性を強調したのです。
都庁に対し繰り返し予算を求める中、ある時佐々は都庁の関係者に「都は八丈小島のフィラリアを天然記念物にするつもりか」と強く詰め寄ったという逸話も残っています。
その後、奄美大島や鹿児島県、愛媛県などでもフィラリア駆除が進められ、各地で集団検診やDDT散布が実施されました。
これらの成果が国内外で評価される中、1962年にフィラリア症対策は厚生省の認可を受けた国庫補助事業となり、日本全土での大規模な対策が開始されたのです。
日本のフィラリア症対策は、国際的にも高く評価され、他国のモデルとして採用されることとなりました。
一方八丈小島では1956年に大規模なフィラリア駆除が行われた後も、伝研は研究を続けました。
1962年11月、漆原智良が教師として赴任していた八丈小島の鳥打小中学校で、佐々の門下生である神田錬蔵らが島民を対象に集団採血検査を実施します。
この検査で、漆原は自分の妻がフィラリアに感染していることを知り、大きな衝撃を受けました。
しかし、幸いにもスパトニンという駆虫薬がすぐに提供され、治療が可能となっていたのです。
かつて不治の病とされたフィラリア症は、早期発見とスパトニンの服用で完治する時代に移り変わっていきました。
八丈小島からバクの消えた日
1963年8月、寄生虫学者の森下薫は八丈小島を訪れました。
この訪問は違う寄生虫の調査が目的でしたが、森下は八丈小島のマレー糸状虫症にも関心を持っていたのです。
彼は厳しい天候条件の中、ようやく小島に到着し、伝研メンバーとともに調査を行いました。
当時、八丈小島では糸状虫予防のためのスパトニンの服用と媒介蚊の駆除が続けられていましたが、まだ14名がミクロフィラリアの保虫者として確認されていました。
研究者たちは島の風土を惜しみながらも、島民の健康を守るために研究を進め、保虫者への説得を続けたのです。
この努力が実を結び、1965年には保虫者の割合が0パーセント台にまで減少し、1968年にはついに新規感染者がゼロに。
何世代にもわたって八丈小島の人々を悩ませた「バク」と呼ばれる奇病は、ついに姿を消したのです。
島民と研究者たちの長年の努力が結実し、八丈小島に明るい未来が訪れたかに見えました。