【鎌倉殿の13人】北条政子が助命嘆願した源有雅が無惨にも殺害された訳
鎌倉時代前期の公卿・源有雅は、神楽(歌舞)や琴に巧みで、後鳥羽上皇の近臣として仕えてきました。検非違使(京中の治安維持を担う)別当(長官)や、権中納言を歴任してきたわけですが、彼もまた承久の乱(1221年6月)においては、官軍を率い、宇治に出陣しています。
そして敗退し、出家。鎌倉幕府に恭順の意を示しますが、許されず、小笠原長清(甲斐国の武将)の「預かり囚人」となるのです。
その後、いよいよ、有雅は、鎌倉に送られることになりました。その途上において、斬首される公卿がいたことは以前に記しましたが、有雅にも同じ運命が待ち受けていました。
承久3年(1221)7月29日、甲斐国に着いた有雅。有雅を護送する小笠原長清に、有雅は「私は北条政子様に縁故がある。私の命を助けてくれるよう、政子様に伝えるので、しばらく死刑を猶予してくださらぬか」と申し出ます(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。
ところが、長清は、その申し出を拒否し、有雅を殺してしまうのです。殺した直後に、政子からの有雅助命の書状が届いたとのこと。もう少し早く、政子の書状が届いていたら、有雅の運命も変わっていたかもしれません。
粗忽者(慌て者)の振る舞いにより、死者(源有雅)の恨みは残るであろうと『吾妻鏡』には、この出来事に付いての感想が書かれています。
人間の運命というものは、紙一重で変わってしまうものなのです。