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日本とフィリピンを結んだアキノ前大統領――皇室との交流が開いた新地平

六辻彰二国際政治学者
国賓として来日し、日本記者クラブで講演するベニグノ・アキノ(2015.6.5)(写真:ロイター/アフロ)
  • 先日死去したフィリピンのアキノ前大統領は在任中、日本との関係強化を進めた。
  • その背景には、海洋進出を進める中国との対立があった。
  • しかし、アキノがプロモートした皇室との交流は、日本とフィリピンの関係に、実利的協力を超えた新たな次元を切り開いたといえる。

 フィリピンのアキノ前大統領は日本との関係を強く意識した政治家だった。とりわけ2016年1月に当時の天皇・皇后両陛下の戦没者慰霊の旅をプロモートしたことは、日本とフィリピンの関係に新たな次元を開くものだったといえる。

名門一家の長男として

 2010年から2016年までフィリピン大統領を務めたベニグノ・アキノ3世が6月24日、死去した。

 現在のロドリゴ・ドゥテルテ大統領は麻薬ギャングの銃殺を容認したり、女性蔑視などのきわどい発言を繰り返したりするなど、良くも悪くもとにかく型破りだ。これと比べるとアキノには強烈なまでのリーダーシップはなく、日本での知名度は決して高くない。

 しかし、ヘビースモーカーのアキノは大統領になってからも禁煙のレストランでは外に出てタバコを吸うなど、これまた良くも悪くも気さくな人柄や良識的な振る舞いに定評がある大統領だった。

 その出自は華麗といってよい。アキノの父ベニグノ・アキノ・ジュニアは20年にわたって独裁政権を率いたフェルディナンド・マルコス(任1965-1986)に抵抗した上院議員で、1983年に暗殺された。母コラソン・アキノはそのマルコス体制を、民衆を率いた「ピープル・パワー・レボリューション」と呼ばれる革命で1986年に打倒し、その後大統領となった(任1986-1992)。

 1987年に軍が起こしたクーデタではアキノ本人も銃撃され、一命を取り留めたものの、その時受けた銃弾の一発は終生アキノの首に埋まっていたという。

 有名な独身貴族で、大統領就任直前にも20歳以上離れたテレビ番組の女性パーソナリティーと浮名を流すなど、フィリピン史上初めて未婚の大統領だった。これは家族の結びつきを重視するカトリックが主流のフィリピンでは異例で、ドゥテルテとは別の意味で自由だったといえる。

大国の狭間のフィリピン

 その一方で、大統領としての仕事で注目すべきは、日本やアメリカとの関係強化に力を入れたことだ。その背景には、中国との関係悪化があった。

 フィリピンは20世紀初頭にアメリカの植民地になり、第二次世界大戦後の1946年に独立してからもアメリカの影響力が大きかった。冷戦時代、アジア最大の米軍基地がフィリピンに置かれていたことは、その象徴だった。

 しかし、沖縄などでもしばしば発生する米兵による暴行事件などがフィリピンではさらに多かったうえ、アキノの父の命を奪ったマルコス体制はアメリカの支援を受けていたからこそ20年以上もこの国を支配できた。こうした背景のもと、冷戦終結後の1991年に米軍基地が撤去されたことは不思議でない。

 ところが、その後のフィリピンは中国との関係悪化に直面することになった。南沙諸島(スプラトリー諸島)をめぐり中国との間で緊張が高まった結果、アキノは2013年に常設仲裁裁判所に中国を提訴して世界の注目を集めたものの、中国がこれを拒んだため、審理は進んでいない。

 それと並行してアキノは2014年にアメリカと拡大防衛協力合意を結ぶなど、最大の貿易相手国である中国を牽制した。日本との関係強化もこうしたなかで進められたのである。

遠い平和の夢

 アキノが大統領だった時期は、ちょうど尖閣問題などをめぐり日中関係が急速に悪化した時期に重なる。

 もともと冷戦時代からフィリピンは日本にとって最大の援助対象の一つだった。しかし、中国の海洋進出という、いわば共通の課題の浮上を受け、フィリピン向けの日本の政府開発援助(ODA)がアキノ政権時代に増えただけでなく、両国は2015年に幅広い分野での協力を定めた戦略的パートナーシップにも合意した。

 日本の支援はフィリピンの政情安定にも及んだ。

 フィリピンでは南部一帯に多いイスラム教徒が分離独立を求めて政府と対立し、しばしばテロ攻撃を行なっていた。アキノはイスラム教徒を束ねるモロ・イスラム解放戦線(MILF)との対話を進めたが、これを仲介したのが日本政府だった。2011年8月アキノは極秘で来日し、成田空港そばのホテルでMILF代表と会談し、和平交渉を進めることに合意した

 残念ながら、フィリピン政府との和平に反対するMILF急進派が戦闘を続け、2017年にはシリアからイスラム過激派「イスラム国(IS)」の残党が流入したことで、フィリピンにおける内乱が完全に収束したわけではない。アキノが目指した和平への道は遠い。

皇室との交流

 ただし、アキノの方針は国内で異論も呼んだ。

 2015年の戦略的パートナーシップ合意で自衛隊の艦艇がフィリピンで補給できると合意されたことは、一部で「日本の軍事的影響力の拡大」を懸念する声があがるきっかけにもなった

 この背景には、当時の安倍首相が2013年、靖国神社に参拝したこともあった。これは中国や韓国だけでなく、かつて日本軍に占領された経験をもつ東南アジア諸国でも、程度の差はあれ否定的な論調で伝えられ、フィリピンもその例外ではなかった。

 その結果、アキノ政権が日本やアメリカとの間で結んだ安全保障協力は議会で修正を求められるなどの抵抗に直面したのである。

 こうしたなか、アキノ退任直前の2016年に実現したのが、当時の天皇・皇后両陛下による第二次世界大戦の戦没者慰霊のための訪問だった。

 アキノは2015年に国賓として来日して以来、日本との国交樹立60周年を機に天皇・皇后両陛下をフィリピンに招待することを提案していた。戦没者の慰霊を続けていた両陛下にとっても、これは願ってもないことだったと思われる。

実利性を超えた交流

 2016年1月、アキノはマニラの大統領官邸に天皇・皇后両陛下を迎えた。会談では政治問題に触れられず、天皇陛下が皇太子時代の1962年に初めてフィリピンを訪問した時のことの他、フィリピンで日本車の人気が高いことや、最近ではユニクロの進出が目覚ましいことなどが話され、終始和やかだったといわれる。

 5日間の滞在中、両陛下がマニラ郊外のタギックにある戦没者墓地などフィリピン各地を、日本人だけでなく全ての戦没者を慰霊するために巡ったことは現地メディアでも報道され、「ナショナリスト的な日本政府と大きく異なる」という論評もあった。

 戦没者慰霊の旅を続けるその姿にアキノは「他人が下した決定の重荷とともに生きてこなければならなかったことに畏敬の念を覚える」と述べている。

 アキノは、ままならない環境のもとでも己の道を守ろうとする両陛下の姿に、好むと好まざるとにかかわらず大国間の狭間で生き残りを目指さざるを得ない自分やフィリピンを重ねていたのかもしれない。

 ともあれ、この訪問には、日本とフィリピンの関係に新たな次元を切り開くものであったことは確かで、そのプロモーターになったアキノは政治や経済の実利性を超えた両国の交流の立役者だったといえるだろう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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