樋口尚文の千夜千本 第208夜『花腐し』(荒井晴彦監督)
ただただ雨に腐らされるということ
この映画を観た後で、急に気になって確認したら、荒井晴彦はとうに黒澤明が『乱』を撮っていた頃の年齢を超えていて、むしょうにおかしくなった。片やあんな巨視的なまなざしで世の無常をふつふつと呪い、生真面目に怒る作家の晩節もあれば、こんなに飄々とだらだらと性にまみれた生のおかしさ、悲しさを脱力気味に詠む「老境」もあるのだった。というわけで、『影武者』以降の黒澤を「ボケの味」にはまったと語る評論家がいたが、あいかわらず荒井晴彦は「ボケの味」にははるか遠く、全く反省の気配もない。この瘋癲老人は「色ボケ」上等の構えに見えるが、これだけ色を好みつつ「色ボケ」の気配もない。雨ふりしきる『花腐し』は、しかしボケた抒情的湿潤とは全く隔たった冴えのなかで、ただただ人物たちの下降が描かれる。
松浦寿輝の原作は文字通り換骨奪胎され、人物関係の祖型にピンク映画周りの設定を持ち込むことで荒井の側にねじ伏せられている。冒頭の葬式で『新宿乱れ街 いくまで待って』のようなもはや古式ゆかしい罵り合いと乱闘があり、「顔ぶたないで。わたし女優なんだから」「『ラストタンゴ・イン・パリ』はバター、『ベッド・イン』はマーガリン」とか楽屋落ちじみた自己言及もあったりで(今どき『ベッド・イン』なんて名画座の日活ロマンポルノ特集に並ぶくらい奇特な、それこそ柄本佑のような勉強家しか知らないだろうからちょっとくすぐったく)、もしやこれはくだんの「ボケの味」か?!と一瞬不安になるも、瘋癲老人はそういう端っこの楽屋落ちも鷹揚に披瀝しつつ、着実に最近の若い観客以上に現役の漸進的滑降を生き始める。
5年映画を撮っていないピンク映画の監督の綾野剛は、あるいきさつで取り壊し予定の古アパートから出ていかない脚本家志望の柄本佑を追い出しにいくが、なぜだか意気投合して互いの過去の女のことを語りだす。この撮れない映画監督と、脚本家をただ志望しているだけの男という、浮草のごとき二人の時として自虐的な笑いをたたえた会話がすっとぼけていて、つい耳をそばだててしまう。あまり書かないが、その過去の女・さとうほなみは、二人にとって極めて忘れがたい存在であり、さらに物語の起点においてある不可解な事件を起こして不在になっている。だがあくまで不在であるがゆえに、このどんづまりで停滞する二人の男の内部で、さとうほなみは圧倒的な勢いで現前するのだった。回想のさとうほなみは鮮やかに生きていて、対する現実の綾野と柄本は生気を吸われた死人のようだ。そしてさとうへの悔恨やら疑問やらを深めつつも、結局はその不在に拱手傍観するのみで、降りしきる雨のなかの卯木の花のように二人の男はじわじわと腐らされるばかりなのだ。
そして二人の回想のなかでは、彼らとその女性とのセックスが重要なモチーフとして描かれるのだが、今世紀に入って日本映画はセックスを正視しなくなった。かつての若者なら性欲を持て余して『赫い髪の女』の主人公カップル(あれも主人公の職業的事情で雨の日ばかりであった)のように、日がなセックスに明け暮れたかもしれないが、今どきのデオドラントされた青春にはセックスは面倒くさいものとすら映っているようである。私は大学の講義で今どきの二十歳ちょい過ぎの男女生徒たちに日活ロマンポルノから『愛のコリーダ』に至る性表現について教えているが、たとえばくだんの『赫い髪の女』や『天使のはらわた 赤い教室』や『人妻集団暴行致死事件』といった性のモチーフを核にしたロマンポルノの傑作群は、映画会社の方針としてセックスを中心化する(!)という日活の路線転換がなければ(それを白眼視したスタッフ、キャスト、はたまた観客も大勢いたわけだが)製作され得ない作品であったわけだ。
木に竹を接ぐように見せ場のセックスシーンをおざなりに描いた作品は拙劣だが、性を真っ向から扱ってみたい作家にとって、日活の路線転換は千載一遇の好機であった。当時の傑作を学生に見せ、説きながら日活ロマンポルノの日本映画史に遺した深甚な意義を再確認している次第だが、まさにロマンポルノを下支えしていた荒井晴彦が『身も心も』以降の監督作で常にロマンポルノの転生というべき性表現を反復継承しているのはもはや「最後の砦」かもしれない。そして現場にインティマシー・コーディネーターという職種が加わっても、荒井晴彦の描くセックスの表現にさほど影響は出ないのではなかろうか。なぜなら荒井作品の性表現は、ひたむきであるほどに滑稽で、しかも人としての哀れさを映す「地上の悲しい風景」であるからだ。