平手政秀は「うつけ」だった織田信長を諫めるため自害したのか。考えられるほかの理由
天文22年(1553)閏1月13日、織田信長に仕えていた平手政秀が自害した。今から471年前のことである。
若き頃の信長は「うつけ」と呼ばれ、将来とても天下人になるとは思えなかった。悩んだ政秀は、信長を諫めようとして自害したという。しかし、実際はほかにも理由があると考えられるので、検証してみよう。
若き頃の信長は呆れるような生活を送っており、周囲の人からは「大うつけ(大バカ者)」と嘲笑されることがたびたびあった。以下、『信長公記』に描かれた若き信長の姿を確認しよう。
町を歩くときの信長は、まるで肩にぶら下がっているかのごとく、人に寄りかかるようにして歩いていた。立ったままで餅・栗・柿・瓜にむしゃぶりつくなど、まったくの無作法だった。
信長は髪を茶筅の形にして、萌黄色の糸や紅色の糸で巻いていた。服装はわざわざ湯帷子(浴衣のようなもの)の袖をとり、半袴を着用していた。
腰には火打ち道具を入れて持ち運ぶ燧袋のほか、さまざまなものを吊り下げるなど異様な姿だった。政秀は、こうした情けない信長の姿に日頃から悩んでいたという。
天文22年(1553)閏1月13日、政秀は信長が一向にマジメにならない様子に思い悩み、「これでは、いくら守り立てても意味がないだろう」と考え、腹を切って果てたという。これが、政秀が自害した通説的な見解である。
その前年、信秀(信長の父)が亡くなったので、織田家の将来を悲観したのだろう(信秀の没年は諸説あり)。『信長公記』はここで記事がいったん切れているので、信長が政秀の死についてどう考えていたのか、また態度が改まったかなどについては記していない。
信長にとって政秀は功臣であり、若い頃から側近として仕えていた。信長が斎藤道三の娘の帰蝶(濃姫)と結婚した際、その段取りを担当したのは政秀だったという。したがって、政秀の死は、信長にとって大きな痛手だったと考えてよいだろう。
ところで、『信長公記』における政秀が自害した記事の前段には、興味深いことが書かれている。政秀には3人の子がおり、嫡男の五郎右衛門は駿馬を所持していた。
ある日、信長がその駿馬を所望したところ、五郎右衛門は「自分は武士でございます。どうかご勘弁願います」と述べて断った。武士は合戦に備えて馬を大事にしていたのだから、当然のことといえるかもしれない。
しかし、信長は五郎右衛門が馬を進上しなかったことを逆恨みし、以来、平手家との関係が悪くなったという。政秀が切腹したのは、信長を諫めるためだったこともあるが、五郎右衛門が馬を進上しなかった一件も絡んでいるのではないだろうか。