【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が東国経営と打倒平家にかけた強い意気込みとは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では省略されていたが、源頼朝が東国経営にかける意気込みはすさまじいものがあった。頼朝が伊勢神宮に奉納した願文から、その点を深く掘り下げてみよう。
■頼朝と源氏の面々
木曽義仲が治承5年(1181)に北陸に侵攻して以後、飢饉や凶作などの影響もあり、全般的に戦乱は一時的にストップした。それは、源頼朝も同じだった。この間、頼朝は東国経営に腐心していたのだ。
頼朝が東国経営を進めるうえで、諸豪族と協力関係を進めるのは当然として、同じ源氏との関係がもっとも重要視された。彼らが、いつライバルになるか不透明だったからだ。頼朝の大きな課題は、源氏のなかで主導権を握ることだった。
当時、頼朝と競合する源氏と言えば、まず北陸を制圧した木曽義仲である。義仲は、頼朝の一歩先を進んでいた感がある。叔父の源行家、志太義広、そして甲斐源氏の武田信義らも侮れない存在だった。
頼朝は自らが源氏の嫡流、正統であることを主張すべく、平家の暴政に終止符を打つことが悲願だった。頼朝が源家の再興をするには、先頭に立って戦う必要があった。ほかの源氏の面々に先を越されてはダメだったのだ。
そのためには、後白河法皇に接近し、国家公権の承認を得て、東国支配を進めることが非常に重要だった。それを実現して、初めて頼朝は源氏の正統として認められ、主導的な立場を確立しえたのである。
■伊勢神宮に奉納した願文
寿永元年(1182)2月、頼朝は「四海泰平、万民豊楽」(平和と民の繁栄)の思いを込めて、伊勢神宮(三重県伊勢市)に願文を奉納した。草案の筆を執ったのは、三善康信である。以下、概要を記しておこう。
平治の乱で、頼朝は何の罪もないのに流人となった。平清盛の恣意的な言動によって、頼朝は謀反の賊となったが、逆賊は平家のほうである。清盛が死んだのは、神慮が不快になったからだ。
頼朝は後白河法皇に朝務(朝廷の仕事)を任せ、自身は朝敵を討つべく兵を挙げた。平家であろうが、源氏であろうが、不義を罰し、忠臣(頼朝のこと)を賞してください。
頼朝の強い意気込みが感じられる内容であり、その偽らざる心情が伝わってくる。頼朝は、あたかも後白河から打倒平家を任されたかのような言いっぷりである。
■むすび
当時、神社に願文を奉納し、自らの固い決意を表明したり、あるいは成功を祈願することは普通に行われていた。頼朝も当時の慣習に従って、平家の打倒を固く誓った。同時にそれは、頼朝の東国経営の実現を願ったものになろう。