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【大河ドラマ鎌倉殿の13人】承久の乱の恐るべき落武者狩りと三浦胤義の首の行方

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1211)6月15日、承久の乱における宇治川の戦いで、官軍に勝利した鎌倉幕府軍は、いよいよ、都に入ってきました。幕府軍の総大将・北条泰時とその叔父・北条時房の軍勢も、同日の午前中に、六波羅(現在の京都市東山区)に到着しています。

幕府軍の入洛に伴い、官軍方の小野盛綱・足利秀康は逃亡。同じく官軍方の三浦胤義(三浦義村の弟)は、東寺の門内に籠っていましたが、幕府軍が続々と入洛してくるのを見て、幕府軍と何度か刃を交えます。幕府軍、三浦軍、双方に多くの死者が出ました(『吾妻鏡』)。

しかし、最終的には、最早、これまでと、胤義は子息らと共に、木嶋(現在の京都市右京区)にて自害して果てるのです。胤義の郎従(家臣)は、主人の首を太秦の屋敷に持ち帰えろうとしました。ところが、胤義の兄で、幕府方の三浦義村が、その首を奪い、ついには、北条泰時のもとに進上するのです。

夕暮れ時になると、官軍の宿舎に火が放たれます。都人は、それを不安そうに見つめていたようです。幕府軍は、京都やその周辺に充満し、戦場から逃げ出した敗残兵の探索を行っていました。

官軍の敗残兵を探し出し、首を刎ねるためです。「首を斬り、白刄を拭うに暇あらず」(『吾妻鏡』)、余りにも、多くの者の首を刎ねなければならないので、刀の血糊をぬぐう暇もないほどと、その様は形容されました。人馬の死体が街中に散乱し、歩くことが困難になるほどだったと言われます。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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