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文禄の役がはじまったのは、宗義智と小西行長が豊臣秀吉を恐れたからだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
朝鮮半島。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ついに豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した。文禄の役がはじまった理由は諸説あるが、宗義智と小西行長が豊臣秀吉を恐れたからだった。その点を詳しく考えてみよう。

 文禄の役は文禄元年(1592)にはじまり、その最終目標は中国の明の征服だった。秀吉は中国や朝鮮を支配下に治めたあと、天皇を中国大陸に移し、有力な諸大名に領土を分け与える構想を持っていた。

 秀吉が明を征服しようとした理由については諸説ある。征服欲や領土拡大欲はもっともわかりやすいものであるが、際限なき軍役を諸大名に課すことにより、大名統制を図ろうとしたとの説もある。

 ところが、いずれも決定打に欠けるので、現在も論争が繰り広げられている。

 秀吉の明征服の構想が具体化したのは、天正15年(1587)の九州征伐の直後である。秀吉は、対馬の宗義智が朝鮮と通交していたので、対朝鮮交渉を命じた。

 その内容とは、第一に朝鮮が日本に服属すること、第二に日本が明を征服するに際して、その先導役を務めさせるというものだった。義智は、朝鮮と友好関係にあったので頭を抱えた。

 義智は秀吉から命じられたものの、関係の悪化を恐れて、朝鮮側に秀吉の意向をストレートに伝えなかった。

 義智は朝鮮に自分の家臣を日本国王の使者と偽って派遣し、第一に秀吉が日本国王に就任したこと、第二にその祝賀のため通信使(朝鮮国王が外交権者たる日本国王に国書を手交するために派遣する使節)を日本に派遣するよう依頼した。

 この要求は秀吉の指示通りではないので、のちに大きな誤解を生むことになった。

 要望を受けた朝鮮サイドはいったん断ったものの、事情を知らない秀吉は決して納得しなかった。秀吉の命令を拒否することができなかった義智は、考え抜いた末に改めて豪商の島井宗室らと朝鮮に渡航し、再び通信使の派遣を要請した。

 天正18年(1590)、再び要請を受けた朝鮮側は日本に通信使を派遣し、秀吉との面会に臨むことにしたのである。

 交渉の席には秀吉だけでなく、菊亭晴季らの公家も参列して通信使一行を歓待した。その場で、秀吉が通信使に改めて命じたのは、明征服のための先導役だった。

 当然、朝鮮通信使は秀吉の日本国王就任の祝賀のため来日したのだから、話が噛み合うはずがない。しかし、秀吉が朝鮮サイドに対して、明征服の先導役を命じるという要求は、最終的に通信使から朝鮮国王にも伝えられた。

 天正19年(一五九一)、秀吉は明征服のための拠点にするため、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に城を築いた。日本軍の朝鮮半島への渡海準備は着々と進んだが、朝鮮側との交渉は難航を極めた。交渉役の義智と小西行長は、秀吉と朝鮮との間に入って苦悩したが、秀吉の意向に決して逆らえなかった。

 そこで、2人は考えに考え抜いた挙句、朝鮮に明攻略の先導役を務めるのではなく、明征服のために道を貸して(開けて)欲しい、と交渉内容をすり替えた。つまり、日本軍が朝鮮半島に上陸した際、明までの道の通行を許可してほしいということである。

 しかし、そのようなごまかしが通じるはずがなく。最終的に朝鮮との交渉は決裂し、日本は朝鮮半島に侵攻するのである。こうして、文禄の役ははじまったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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