ある種の左遷としても機能していた、古代の島流し
流刑は罪人を辺境や離島に送る刑罰であり、近代に入るまではポピュラーな刑罰でした。
そんな流刑ですが、罪人が流刑先でどのような生活を送っていたのかについてはあまり語られていません。
この記事では古代の島流し先の生活について紹介していきます。
ある種の左遷としても機能していた島流し
さて、流刑という言葉が我が国の歴史に現れるのは、遠い昔のことであります。
思えば、島流しといえば、今の時代の人々には物語や劇に登場する悲哀の象徴、あるいは異郷での孤独な生活を強いられた英雄や罪人の姿が思い浮かぶのです。
しかしながら、その実態を振り返れば、必ずしも厳しい処罰としてのみ機能していたわけではなく、我々の祖先が施した刑罰は、外の国々に比べて、実に寛大なものでありました。
流刑は、国家の法律体系が確立し始めた上古の時代から行われておりました。
日本の法体系は中国、特に唐の影響を大いに受けており、「五刑」という刑罰体系が取り入れられていたのです。
この五刑の中で、最も軽いものが「笞(ち)」、すなわち尻を叩く刑罰であり、重いものが「杖(じょう)」、さらにその上に「徒刑」、すなわち今でいう懲役がありました。
そして、その徒刑よりも重いのが「流刑」、最も重いのが「死刑」であります。
流刑には大きく分けて「遠流」「中流」「近流」の三つの種類がありました。
遠流とは、京から非常に離れた場所に流される刑罰で、佐渡や伊豆、土佐などの遠方の地に送り込まれることを意味しました。
中流は信濃や伊予、近流は越前や安芸など、距離に応じて流刑地が決められていたのです。
現代と比べると、当時の距離感覚は異なり、たとえば伊豆国は京から七百七十里離れているとされ、非常に遠く感じられたことでしょう。
さて、流刑に処せられた者がどのように扱われていたかというと、驚くべきことに、その待遇は非常に寛大でありました。
まず、家族を連れていくことが許されていたのです。妻や妾はもちろんのこと、親や子供、孫までもが一緒に流刑地に行くことができ、希望があれば共に暮らすことが許されました。
流刑とはいえ、流された地で家族と共に生活を営むことができたのです。
実際の生活も、そこまで過酷なものではありませんでした。
流刑地に到着すると、国家から毎日米一升、塩一勺が支給されました。
さらに、後には農業を営むことも許され、田を作るための稲種も支給されました。
規定の役務を終えると、正式にその地に住む百姓となり、さらには罪を赦されることもあったのです。
もし流刑人が死去した際には、連れ添った家族は都へ帰ることも許されたといいます。
このように、流刑は決して監禁や拷問といったものではなく、むしろ地方での生活を許される一種の「左遷」として機能していた面がありました。
歴史を振り返ると、流刑に処せられた有名な人物も数多く存在します。
たとえば、推古天皇の時代には、新羅の間諜として捕らえられた人物が上野に流されたという記録があります。
また、役の行者(えんのぎょうじゃ)として知られる役小角(えんのおづぬ)は、呪法を用いて人心を惑わせたとされ、伊豆に流されたことで有名です。
さらに、遣唐副使であった小野篁(おののたかむら)も、唐への渡航を拒否し、朝廷を批判したことで隠岐に流された人物の一人です。
彼は流刑の身となってからも盛んに和歌を詠み、その歌は今でも百人一首に残されています。
「和田の原八十島かけてこぎ出ぬと人には告げよ海人の釣船」という歌は、彼が隠岐に流された際に詠んだもので、自らの厳しい運命を嘆きつつも、同情を求めた一首であります。
このように、流刑に処せられた者たちは、時に厳しい環境に置かれながらも、その地で新たな生活を築き上げることができたのであります。
また、時には現地の人々に敬われる存在となり、大きな力を持つ者もいました。
源為朝(みなもとのためとも)は伊豆に流された後、その地で勢力を振るい、まるで一国の主のような生活を送ったと伝えられています。
一方で、流刑の厳しさを象徴する例もあります。
鹿ケ谷の陰謀に関わった藤原成親は、流された先の備前で非常に劣悪な環境に置かれ、土壁の家に住み、わらじのようなものを敷物として座っていたという記録があります。
成親の悲惨な生活は、流刑の厳しさを物語る一例として伝えられているのです。
総じて、日本における流刑は、他国と比較しても非常に寛容な制度であったことは明らかです。
上古時代の流刑は、単なる罰ではなく、新たな生活の場を与え、時には罪を赦す寛大な刑罰として機能していたのであります。
流刑とは、一見すると厳しい処罰のように見えますが、実際には新たな始まりを意味するものでした。
参考
小山松吉(1930)「我國に於ける流刑に就て」早稲田法学 10 p.1-37