藤原道長は『御堂関白記』を書いたのに、関白になっていなかった
今年の大河ドラマ「光る君へ」では、摂関政治で栄耀栄華を極めた藤原道長が重要な役割を果たすことになる。道長といえば、日記『御堂関白記』が非常に有名であるが、実は関白になっていなかった。その辺りの事情を考えてみることにしよう。
藤原道長の日記『御堂関白記』には、長徳4年(998)から治安元年(1021)の出来事が書かれている。実は、題については、『入道殿御暦』『法成寺摂政記』『御堂御日記』『法成寺入道左大臣記』といった名称もある。
自筆原本は国宝に指定されており、陽明文庫(京都市右京区)が所蔵する。平成25年(2013)には、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に登録された。
一般には『御堂関白記』として知られる日記であるが、それは江戸時代に近衛家煕(1667~1736)が名付けたものである。ところが、道長は関白にならなかったので、必ずしも正しい題名とはいえない。次に、道長の官歴などを確認しておこう。
道長には、道隆、道綱、道兼という3人の兄がおり、そもそもは将来の栄達が望めなかった。しかし、長徳元年(995)に道隆が病で亡くなると、あとは道兼が継いだものの、在職してわずか7日で急死した。後継者争いは、道隆の子の伊周が有力だったが、道長は姉の東三条院詮子の支援もあって、その座を射止めたのである。
長徳元年(995)5月、道長は内覧の宣下を受けると、翌月には右大臣に転任し、藤原氏氏長者の宣下も受けた。内覧とは天皇に奏上すべき文書を内見して政務を処理すること、またはその担当者をいう。摂政や関白だけでなく、内覧の宣旨を受けた人が担当することができた。
道長が摂政に任じられたのは、長和5年(1016)1月のことである。ちょうど、外孫の後一条天皇がわずか9歳で即位したときだった。しかし、道長はその翌年3月に摂政を辞し、代わりに子の頼通が摂政の宣旨を受けたのである。
こうして、藤原氏は摂関政治の黄金時代を築いた。寛仁元年(1017)12月、道長は太政大臣に就任した(翌年2月に辞任)。一方の頼通は、寛仁3年(1019)12月に摂政を辞して、関白に就任したのである。
なお、『御堂関白記』は大日本古記録(岩波書店)で活字化されており、倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』上中下巻(講談社学術文庫)で現代語訳も読むことができる。非常に難解な史料であるが、現代語訳で読めるのは、現代人にとってはありがたい。
主要参考文献
朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
大津透『日本の歴史06 道長と宮廷社会』(講談社学術文庫、2009年)
山中裕『藤原道長』(法蔵館文庫、2023年)