最高裁が違憲と判断した旧優生保護法の誕生には不都合な真実が隠されている
旧優生保護法は1948年6月の国会で与野党議員全員が一致して成立させた議員立法の法律である。それが76年後の今年7月3日、最高裁大法廷は憲法違反の判決を下した。
日本国憲法が施行されたのは旧優生保護法が成立する前年の5月3日だ。そうなると日本の国会議員は日本国憲法に違反する法律を作り、全員一致で成立させたことになる。
終戦直後の混乱した時代だったとは思うが、日本はGHQの占領支配下にあり、GHQが民主化を推し進めていた時代だった。その時代になぜ憲法違反の法律が作られ、それがどのようにして成立することになったのか、疑問がわいてくる。
旧優生保護法の目的は「不良な子孫の出生を防ぐ」という優性思想によるものと言われる。優秀な遺伝子を持つ者の子孫を残し、劣った人間を淘汰することが社会を発展させるという思想が戦前には世界中にあった。
日本でも大政翼賛会ができた40年に「国民優生法」が制定された。しかし障害と遺伝の関係がはっきりしないため、日本政府は不妊手術を強制することをしなかった。それがなぜ戦後になって2万5千人も不妊手術をすることになったのか、しかもその66%は本人の同意がない強制手術である。
次に法律の目的として言われるのは、戦地から兵隊が引き上げてベビーブームが起こり、食糧のない日本で人口が爆発すれば飢え死にする人間が続出する。現実に子殺しや闇堕胎が横行して社会問題化していた。それを防ぐため「母体保護」を目的に人工妊娠中絶を合法化する必要があった。
優生思想から「優生」、母体保護から「保護」を取って法律の名前が付けられたのは、この法律に2つの目的があったことを示している。それでは2つの目的はどういう関係におかれていたのか。
先月27日に放送されたNHK教育テレビのドキュメンタリー「“法”の下の沈黙 ~優生保護法の罪1948-2024~」では、法律の提案者である日本進歩党の谷口彌三郎参議院議員が、人工妊娠中絶を合法化すれば、優秀な人間が中絶し、劣った人間は中絶をしない。それでは「逆淘汰」が起きて国民の質が落ちると主張し、中絶の解禁とともに障害者への強制不妊手術を認める法律ができたと説明している。
谷口議員は日本医師会の幹部で優生思想の持ち主だ。しかし占領下の国会でGHQの方針と相容れない法案審議などできるはずがない。日本の民主化を推進していたGHQが人権を無視する優生思想の法律を成立させることがありうるのか。
私の疑問に回答を与えてくれたのは、河合雅司著『日本の少子化 百年の迷走』(新潮選書)だった。著者は人口問題に精通する元産経新聞記者で、明治から現在に至る人口問題の流れを俯瞰し、世界各国が「人口戦」を展開しているという視点を教えてくれた。
「人口戦」とは、相手国の国民を虐殺するのではなく、経済封鎖などで出産期にある女性や小さな子供の健康に影響を与え、また結婚や出産をためらわせる思想を持ち込み、人口増加を停止させ、国民の活力を弱める「静かなる戦争」のことだという。
著者によれば、2010年を100として2060年の総人口がどれほどになるかを、国立社会保障・人口問題研究所が各国比較した結果、人口が減るのは日本とドイツと韓国の3か国のみで、他の先進国はみな人口が増加する。減少幅が最も大きいのは日本で67.7、ドイツは79.1で韓国は89.9だという。
そこで日本の出生数の推移を調べると、戦後のベビーブームは47年から49年の3年間で唐突に終わることが分かった。49年の出生数269万人が翌50年には233万人と一挙に36万人も減ったのだ。
さらに調べると、ベビーブームは3年間で終わったのではなく、国策によって3年間で終わらせたのだという。人工妊娠中絶や避妊知識の普及を国が積極的に行ったのだ。そこに旧優生保護法誕生の秘密がある。そしてそれにはGHQが仕掛けた巧妙な工作がある。
GHQは日本が海外に武力侵攻した原因を人口過剰問題にあると考えた。明治維新以来の富国強兵路線によって資本主義が確立されると、江戸時代に一定に保たれてきた日本の人口は爆発的に増え、日本政府は移民政策によって過剰人口を海外に送り出さざるを得なくなった。
ところが日本人移民の増加に脅威を抱いたアメリカ、カナダ、オーストラリア、ブラジルなどで日本人移民排斥運動が起こり、欧米列強は「日本は戦争を始める」と警戒の目で見ていた。そのため知識人の中から「産児制限」で人口過剰問題を解決する考えが生まれる。
産児制限運動の先駆者の中に、後に社会党の国会議員になる加藤シズエがいた。加藤は大正時代に産児制限論者であるマーガレット・サンガー女史とアメリカで出会い、その考えに共鳴して日本で産児制限運動を始めた。しかしそれは富国強兵路線の政府から危険思想とみなされる。
そして大東亜共栄圏構想が国家目標になると、大規模な人口増加が必要になり、「産めよ殖やせよ」が奨励され、産児制限運動は利敵行為として弾圧された。さらに海外では出生率の低いフランスがナチス・ドイツに敗れ、敗因は産児制限と個人主義にあると分析された。出生率の減少は国家存続の危機を生むことが認識されたのである。
45年8月、日本は戦争に敗れた。日本を占領支配したGHQは、人口過剰が侵略戦争の原因だから、産児制限で将来にわたる脅威を取り除こうと「静かなる戦争」を始めた。ただし占領者として産児制限を押し付けるのではなく、日本に自らの意思でやらせる必要があった。
マッカーサーは、米国が押し付けたと思われれば、ナチス・ドイツの優生思想と同様の批判を受け、米国の国際的信用力を失墜させると、それを恐れていた。そのため「日本人の自主性に任せる」ことを強くアピールした。日本人の意思で産児制限をするには日本人の協力者が必要になる。
45年9月に日本が降伏した数日後、GHQ担当者が産児制限運動で弾圧を受けた加藤シズエの許を訪れ、GHQの非公式顧問に就任することを依頼する。加藤は見返りに女性の参政権を要求し、それが12月の帝国議会で実現した。男女同権を規定した日本国憲法に先立って女性参政権が認められ、加藤は夫の勘十とともに戦後初の総選挙で社会党の衆議院議員になった。
GHQの狙いは産児制限を議員立法で成立させることである。政府提案だと米国の占領政策の押し付けと思われてしまう。加藤はGHQと協議を重ねて議員立法の法案を作成した。しかし日本政府の中には「産児制限は民族の自殺になる」との考えが根強くあり、成立には高い壁があった。
47年10月に加藤とその同調者は母体保護のため中絶を認める法案を提出したが、政府の慎重姿勢で法案は審議されずに終わった。そこに日本医師会出身の谷口参議院議員が法案の手直しを提案してくる。それは母体保護の性格を薄め、優生思想を前面に打ち出すものであった。
この修正案が超党派の議員立法として全員一致で成立することになる。しかしなぜGHQは人権無視の優生保護法成立を認めたのか。著者の河合氏は、GHQは優生政策を前面に出させて日本政府首脳を説得し、同時に人口抑制というGHQの狙いを見えなくする一石二鳥だったと指摘する。
日本国憲法に違反する人権無視の法律でも、それを成立させたのは日本人で、米国が責任を問われることはない。そしてGHQは日本に産児制限を導入させることで日本の活力を削ぎ、将来にわたって米国の敵にならない国にする「人口戦」に勝利しようとしたのだ。
しかし法律は母体保護を目的とする人工妊娠中絶を認めただけで、経済的理由で中絶することは認めていない。すると国民の中から経済的理由による中絶を要求する声が出てきた。それを見てGHQは産児制限の導入に続き、次に普及拡大の世論誘導を始めたのである。
米国から学者を呼び、「日本の将来は出生率を下げることで経済繁栄するしかない」と講演させ、それを日本の新聞に書かせた。しかし米国には産児制限に反対するカソリック団体がある。そのためマッカーサーはあくまでも中立を装い、しかしGHQの世論工作を止めることはしなかった。
旧優生保護法が成立した翌49年、吉田茂内閣は法律の改正を行い、経済的理由での人工妊娠中絶を認めた。日本は世界で初めて母体保護ではない人工妊娠中絶を合法化した国になった。するとそこから中絶手術が爆発的に増加する。49年に10万件だった中絶件数が50年には32万件と3倍になり、これで第一次ベビーブームはピタリと終わった。
米国は日本に対する「人口戦」に勝利した。GHQの占領支配が終わっても日本には「少なく産んで豊かに暮らす」というライフスタイルが定着し、日本の少子化は止めようがなくなった。そして旧優生保護法の人権無視の側面は国民の意識から消えていた。
日本が高度成長した70年代、生長の家などの宗教団体が胎児の生命保護(プロライフ)の目的で中絶禁止を主張し始める。佐藤栄作内閣は72年に①経済的理由による中絶を禁止する。②重度の障害が認められる胎児の中絶を合法化する。③高齢出産を避ける指導を追加するという法改正を行おうとした。
これに「中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)」などの女性団体と「全国青い芝の会」などの障害者団体が強く反発、ピンクのヘルメットの女性や車いすの障害者が激しい反対運動を展開して改正案は廃案に追い込まれた。
法律の人権無視の側面に光が当てられたのは90年代になってからだ。96年に議員立法によって優生条項をすべて削除することになり、母体保護と中絶に関する規定だけが残されて法律の名称は母体保護法に改められた。
98年には国連人権委員会が強制不妊手術を受けた被害者に対する補償を日本政府に勧告する。それから20年後の2018年に宮城県の被害者女性が国家賠償請求訴訟を起こした。そして先月、ようやく最高裁が旧優生保護法を違憲と判断し、被害者への賠償を国に命じる判決を言い渡したのである。
これまで国は不法行為から20年以上たっているという理由で損害賠償請求に応じなかったが、最高裁判決を受けて先月17日に岸田総理は総理官邸で被害者ら原告側と面会し、「政府を代表して謝罪する」と頭を下げた。31日には東京都内に住む女性が国を訴えた裁判で、国が1600万円を支払う和解が成立した。林官房長官は「和解による解決を速やかに進めていく」と記者会見で述べた。
私は学校給食でコッペパンと脱脂粉乳を食べた世代である。それは米国が食糧難の日本に援助をしてくれたからだと思っていた。そして教師からは「コメを食べると頭が馬鹿になる」と教えられた。それ以来、日本人の家庭は日常的にパンを食べる習慣になった。
私は80年代に米国が水田面積を増やしていることを知り、コメを食べない米国でなぜ水田面積が増えているのかを取材に行った。米農務省の元次官は「日本に米国の農産物を輸入させるため、子供にパンの味を覚えさせる目的で学校給食を提供し、それは大成功だった。それを再現するため今度は欧州の子供にコメを食べさせる計画だ」と言った。
欧州は寒冷で米を作れないので、米国のコメに依存するよう「コメは完全栄養食品。子供の健康にはコメを!」という標語を作り、スイスを拠点にコメを使ったレシピの宣伝活動を行っていた。それを聞いて「コメを食べると馬鹿になる」という教えは何だったのだろうと私の胸は苦しくなった。
米国の占領下で仕掛けられた食糧戦略により、日本の食糧自給率は4割を切り、先進国では最低レベルだ。日本は自立できない国にさせられた。その出発点が小学校の給食で食べたコッペパンと脱脂粉乳で、米国に感謝していたことを思うと複雑な気持ちになる。
テスラ創業者のイーロン・マスクは「日本はいずれ消滅する」と予言しているが、日本の少子化は止まらない。その出発点は旧優生保護法にある。しかしそれを意識している日本人がどれほどいるだろうか。
占領下の日本には不都合な真実がいくつも隠されている。それを掘り起こしていかないと自分たちの将来を考えることなどできないのではないかと思う。