朝ドラ『スカーレット』の成長物語としての魅力 8週分を振り返る
朝ドラ『スカーレット』はとても質のいいコメディだとおもう。
静かな笑いが毎日こぼれてくる。
物語は9週まで終わり、主人公の喜美子(戸田恵梨香)は信楽の陶業の会社で働き続ける覚悟を見せた。「火鉢の絵付け」職人として働いている。
舞台は昭和三十四年、西暦でいえば1959年。
そろそろ火鉢の時代が終わっていく。
たしかに1960年代の日本は火鉢から脱却しようとしていた。
世相も、主人公を取り巻く環境も変わっていく。
成長物語としての『スカーレット』の魅力
火鉢の売れ行きに陰りがみえ、絵付けの師匠である「フカ先生」も去っていった。
この物語は、深く関わった人物との暖かい交流を描き、でもその人たちと離れていく姿を丁寧に描いている。
少しせつない。でも暖かく、せつない。
それでいて、そこかしこに、軽く「笑かしてやろう」という気配が漂っているのだ。なかなかたまらない。
そして、このドラマは「成長物語」でもある。
主人公は、たびたび決意をする。覚悟を決めていく。だいたいそのたびに別れがあるのだが、そのたびに成長もしている。
まるで、19世紀ドイツ風の「ビルドゥングス・ロマン」と呼びたくなるような正統的な成長物語である。見ていると元気になる。人を元気にさせる。
主人公は、中学を卒業すると、大阪へ出た。
荒木荘という下宿屋で女中をやった。掃除から炊事、洗濯と、身のまわりの家事をおこなう。
そこには厳しく教える大久保さんがいた。演じるのは三林京子。
たかだか家事だけど、なまなかなことでやれるものではない。家事に終わりはない。そう教えられた。認められるまでがんばった。
まっすぐ進む若者と、きちんと厳しく暖かく見守る大人がいる。正統な成長物語である。
三年経ち、信楽に戻り、火鉢を作る陶業の会社で働きだした。
最初は食堂のお姉さんとして雇われたのだが、彼女は火鉢に絵が入れられているのをみて、それに魅了される。
絵を描いていたのは、ちょっと風変わりな先生だった。
イッセー尾形が演じる「フカ先生」である。もと日本画家の深野心仙(ふかのしんせん)先生。
この先生が、いい。
ただ、いいとしか言えない。
いや、いろいろ言うことはできるのだが、でも、いい、としか言いたくない。
いいのだ。いい。とてもいい。
見てるだけで、あったかくなる。とてもいい。
やさしかった。
主人公は、やさしさに包まれて、修行していた。
やさしさで包んでくれたフカ先生
弟子入りしたのは、先生が唸りながら火鉢に絵を描いてる姿を見たからだ。
一番弟子が「あれは見たらあかん」と言っていたが、あまりに変な声をだして先生が唸っているものだから、喜美子はのぞいてしまった。
ああああ。うううう。唸っている。
どれほど苦しんで描いてるのだろう、大丈夫なのだろうか、おそるおそる、喜美子は先生の顔をのぞきこんだ。
先生は笑っていた。へらへら笑っていた。笑いながら描いてた。
のぞかれてることに気づいた先生は「見たなあ」と言う。「恥ずかしい」と顔を伏せたのが、とてもかわいい。
そのあと、なぜ唸るほど笑いながら描いているのか、教えてくれる。
フカ先生は、かつて日本画を描いていた。日本の美しい風景画を描いて、若いころはそれで認められていた。
「えらい貧乏やったから、お金がないし、欲しいもんは何でもぼくが代わりに絵で描いたった。お母ちゃんがな、白いご飯がたべたいなあ、言うからな、よっしゃー言うて、白いふっかふかのご飯を、どっこも欠けとらん綺麗な茶碗に山盛りてんこ盛りに描いたった。お父ちゃんが胸を患うたときな、お父ちゃんどこ行きたい。夏の海に行きたいわ、よっしゃー、海かいて山かいて、川も、畑も描いたった。ちょっと描きすぎやから叱られるかおもたけどな、お父ちゃん、ああ、ええよー、言うてくれたんや。お母ちゃんもな、ええよー、言うてくれてな、嬉しうて楽しうてな、もう、笑うて描いとったわ。ええよー、ええよー、笑いながら描いとった」
秀逸なセリフだった。聞いてるだけでにこにこしてしまう。
それが戦争が始まると、大陸に渡って従軍画家として戦争画を描かされることになった。
兵隊さんが勇ましく戦うてるところの絵や。
そんなん描けん。絵が描けんようになった。
「そやからもう、いつやったか戦争終わった言われてもな、もう、もうあかんわ。もう描けん。もう絵なんか一生描けんとおもうた」
この、先生の「いつやったか戦争終わった言われても」というセリフが心に刺さる。
あの大変な戦争が終わったというのに、先生はうちひしがれていたので、いつ終わったのかさえもきちんと把握していないのだ。大陸の戦場は、忘れがたい凄惨さに満ちていたのだろう。
それが、このひと言ですべてあらわされている。
このドラマの、こういうセリフの細かさに、まいってしまう。
そのあとフカ先生は「絵入りの火鉢」に出会う。衝撃を受ける。
火鉢に絵! 暖を取るために絵なんか要らんやん。
どういうこっちゃ。あ、そういうことか。これが戦争が終わったっちゅうことや。何と贅沢なことを日本は楽しむようになったんや。
ぼくは叫んだわ。
火鉢に絵!
ええよお!
「そやからいま描いてても、どうしてもこう、気持ちがこぼれてくるんや。また笑いながら絵を描けることがどれだけ幸せなことか」
にこにこ説明するフカ先生がすばらしい。
「絵、考えたり、描いたりしとるとな、笑うてしまうんや。もう、楽しうて嬉しうてな、せやからもう、ついな、あほな顔してな、笑うてしまうんや」
黙って聞いてる喜美子が自然と泣いている。見ているほうも泣いてしまう。
泣かせる話ではないし、感動する話でもないし、哀しい話でもないし、でも、人が一生懸命生きてると、それだけで、ただそれだけで胸に迫るのだとおもった。
11月15日放送の41話である。
朝の放送で見て泣いて、昼の再放送で見て泣いて、内容確認するために見て、この原稿のために5回ほど見返して繰り返し泣いた。泣いて、そして、元気になる。
それがこの『スカーレット』の素晴らしさである。
みんなも泣いたほうが、ええよお。
松下洸平の素朴だけれど光る魅力
フカ先生に関しては、もうひとつ、心持ってかれるエピソードがあった。
48話。11月23日放送。
新入社員の十代田八郎くんが入ってきた。
演じているのは松下洸平。初見ではないのだが、役名と役者名をしっかり覚えたのは、このドラマからである。見た目は派手ではない。地味である。
でもいいのだ。彼もとてもいい。
十代田八郎がよくて、松下洸平がいい。しみじみする。
ある日、作業場に来て、深野先生に話をさせてくれ、と言う。弟子三人も一緒だ。
「深野心仙先生のお描きになった日本画が、自分の家に掛かってました」という話をする。
彼の祖父がやっとのことで買った絵だったそうだ。
鳥が飛んでいて、山があって、水辺があって、こっちのほうから日の光が射してる。鳥は二羽飛んでました。そういう絵だったそうだ。
祖父が亡くなっても、大事に床の間に飾っていたという。
フカ先生は「ありがたい話や」と頭を下げる。
「いえ」と遮るように言葉を続ける。
「それを白いご飯に代えました。ぼくが十一のときです。ぼくが売りました」
空気が変わる。
それを聞いているときの先生の表情がたまらない。愛おしい。先生が愛おしく、十代田青年が愛おしく、すべてが愛おしい。
青年は必死に続ける。
「闇市行って。先生の、大事に飾ってあった先生の絵を、一番高う買うてくれる人さがして、売って、ほんで、これくらいの白いお米とたまご三個に代えて、おいしいな、おいしいな、ゆうて、うちのもん、みんなで食べました、、、、お会いしたら頭さげようとおもてました、、、、先生の大事な絵を、すいませんでしたっっ。先生の絵のおかげで、白いご飯、たまご、ほんまにありがとう、ございましたっっ」
フカ先生はゆっくり近づき、青年の髪をぐしゃぐしゃっとして、「若いときの何でもない絵や。忘れんとってくれて、ありがとな」という。
青年が切々と喋り、みんな黙って聞いていた。
それだけである。
ここでもまた、人がただ生きてる風景が描かれている。是も非もない。ただ生きている。
だから切々と胸に迫ってくる。
べつだん気にしなければ何でもない。そこがいい。
人生を感じるドラマ『スカーレット』
このドラマは、そういうシーンの積み重ねである。
それでいて、合い間合い間にいつも「笑かそう」としている。
大阪弁ではない関西弁、というのに惹かれるところもある(私の生まれ育った京都の言葉に近い)。
フカ先生が去って、ドラマはまた新しいステージに入る。
どうやら陶芸を始めるようだ。
またいくつもの出会いがあり、別れもあるのだろう。
それが人生だから。
たぶんいまから眺めても間に合うだろう。人生はそういうものだから。
これからも毎日、にやにや、ときに、めそめそ、静かに見守っていきたい。