【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦後、大幅な加増によりウハウハで笑いが止まらなかった東軍の大名は誰だ
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦で東軍は大勝利を収め、負けた西軍の大名は悲惨な結末を迎えた。詳細は、こちらを参照。では、大幅な加増でウハウハにより笑いが止まらなかった東軍の大名は誰だったのか。
■大幅に加増された東軍の大名たち
東軍大名の大半は加増されたが、なかでも大幅な加増(30万石以上)をなされた大名を順に列挙すると、次のようになろう。
①結城秀康――10.1万石(下総・結城)→59.9万石(越前・福井)
②松平忠吉――10万石(武蔵・忍)→52万石(尾張・清洲)
③蒲生秀行――18万石(下野・宇都宮)→60万石(陸奥・会津)
④池田輝政――18.2万石(三河・吉田)→52万石(播磨・姫路)
⑤前田利長――83.5万石(加賀・金沢)→119.5万石(同)
⑥加藤清正――19.5万石(肥後・熊本)→51.5万石(同)
⑦黒田長政――18万石(豊前・中津)→52.3万石(筑前・福岡)
この一覧には挙がっていないが、福島正則は20万石(尾張・清洲)から49.8万石へと、29.8万石も大幅に加増された。外様大名を含め、徳川家の一族や譜代の家臣も西軍から没収した所領を分け与えられた。
なお、このほかに態度が曖昧であったため、現状維持のままであった者や、かえって疑念を掛けられる者などさまざまだった。慶長8年(1603)に成立した江戸幕府の磐石な体制は、ここに原点があった。
■大名配置の妙
ところで、軍功によって取り立てられた豊臣系武将は、その多くが西国方面に配置されたことが指摘されている。
先に挙げた池田輝政以下の4名は、山陽および九州方面に新たな領地を与えられた。ほかの豊臣系武将に目を転じてみても、細川忠興は丹後・宮津から豊前・中津へ、浅野幸長は甲斐・府中から紀伊・和歌山へ、山内一豊は遠江・掛川から土佐・浦戸へ、それぞれが新しい領地を与えられた。
これ以外にも外様大名は、主に畿内周辺、中国、四国、九州方面に配置された。逆に、徳川一門・譜代は、東国を中心に配置されたことが確認できる。
■徳川一門と譜代の家臣
豊臣系武将だけではなく、徳川一門と譜代の家臣も大幅な加増の恩恵に浴した。
家康の次男・結城秀康は、下総・結城10.1万石から越前・福井59.9万石へと大幅な加増となった。同じく家康の四男・松平忠吉は、武蔵・忍10万石から尾張・清洲の52万石へと加増となっている。
この2人は、ともに5倍近くの大幅な加増となった。2人の配置も大きな意味があり、秀康は加賀・前田家を牽制する役割を負ったという。未だ、外様大名に対する監視を必要としたのである。
徳川家の譜代の家臣も、加増によって多くが国持大名に取り立てられた。しかし、豊臣系武将が西国方面に配置されたのとは異なり、彼らは関東から畿内周辺部にかけて新たな領地を与えられている。
井伊直政は近江・佐和山、本多忠勝は伊勢・桑名、奥平信昌は美濃・加納という具合である。
こうした配置は、大坂の豊臣秀頼を牽制するとともに、西国に新たに入封した西国大名への対抗措置であったと考えられている。譜代の家臣が国持大名に取り立てられたのにも、大きな意味があったのである。
■哀れな末路をたどった大名
一方、勝利を得た東軍にも哀れな末路をたどる大名が存在した。東軍の勝利に貢献した小早川秀秋である。秀秋は家康から備前および美作を与えられた。秀秋の貢献度の高さがいかに評価されたかがわかるであろう。
備前・美作を拝領した秀秋は、家中騒動(杉原氏の誅殺、稲葉氏の出奔など)を経て、領国支配を確立した。しかし、秀秋は慶長7年(1602)10月に21歳という若さで亡くなった。その支配は、わずか2年しか続かなかったのである。
秀秋が亡くなった原因は、大谷吉継の祟りであるといわれているが、俗説として退けるべきものであろう。実際は、酒の飲み過ぎが原因だった。秀秋には子がいなかったため、小早川家は断絶になった。
福島正則は、元和5年(1619)に広島城を改修したことが「武家諸法度」に違反し、安芸・備後の両国を取り上げられ、減・転封処分となり信濃に移った。
正則は家督を子の忠勝に譲り、自身は出家して「高斎」と名乗り隠退した。正則は不遇な晩年を過ごしたうえ、寛永元年(1624)7月に没した。
このように東軍に属した者のその後の運命は、実にさまざまであったといえるのである。