【光る君へ】栄達を遂げた藤原伊周は、周囲からどう思われていたのか?道長との弓比べなどに見る
才能の人が若くして社長になるなどは、決して珍しくない。あるいは、世襲で栄達を遂げる人もいるだろう。
藤原伊周は若くして内大臣になったが、それは関白を務めた父・道隆のおかげでもあった。当時、伊周はどのように思われていたのか、道長との弓比べなどをもとにして考えてみよう。
伊周は和歌や漢学に通じており、『後拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に自身の和歌が採られている。伝存していないが、歌集として『儀同三司集』がある。『本朝麗藻』、『本朝文粋』、『和漢朗詠集』にも漢詩文が採られるほどの実力で、一条天皇に講義を行っていたという。
歴史物語の『大鏡』は、伊周の学才を大いに称えるほどだった。その素養は、文芸の才があった母の高階貴子の血を受け継いだからだろう。
清少納言の随筆集『枕草子』によると、清少納言と伊周は親しい間柄だったようである。清少納言による伊周の評価は、身だしなみがおしゃれで、外見も優れていたというものだった。伊周は、清少納言が仕えていた定子の兄でもあったので、やや甘口の評価になった可能性もある。
一方で、ドラマでも描かれていたが、伊周と道長による弓矢の腕比べは、歴史物語の『大鏡』に書かれている。道隆の二条邸の南院で、人々を集めて弓の競射を執り行ったとき、道長が姿をあらわした。これには道隆も驚いたが、喜んで迎え入れた。
内心で道隆はビックリしていたが、道長の機嫌を取りながら、道長に先に弓を射させた。当時、道長は伊周より官位が低かったので、順番が後になるはずだが、道隆は配慮したのである。こうして2人は競ったが、伊周の的に当てた矢は、道長よりも2本少なかった。
すると、道隆も周りの人々も延長するよう囃し立てた。そこで、道長は延長戦で矢を射るとき、「自分の家から天皇や皇后が出るのであれば、この矢よ当たれ」と叫ぶと、矢は的の真ん中に命中した。しかし、伊周が矢を放つと、とんでもない方向に向かったので、道隆は顔が青ざめた。
再び道長が矢を放つとき、「自分が将来、関白・摂政になるのなら、この矢よ当たれ」と叫ぶと、最初と同じように矢が命中した。結局、場の空気は気まずくなり、伊周が矢を射ようとしたが、止めてしまったのである。
これも一つのエピソードであるが、伊周を貶め、道長を礼賛した可能性も否定できない。その後、伊周は道長と熾烈な出世争いをするが、見事に敗北したのである。