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あまりに不可解な三好長慶の死。配下の松永久秀が関係していたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
飯盛城跡の石垣。(写真:イメージマート)

 現代にあっても、要人の不可解な死は決して珍しくない。織田信長の登場以前、畿内に覇を唱えた三好長慶は、配下の松永久秀が関係していたのだろうか。

 三好氏はもともと細川氏の家臣だったが、長慶の時代には畿内に覇を唱えた。しかし、その栄光は決して長く続いたとは言えず、永禄7年(1564)7月4日に長慶は亡くなった。その死については、『細川両家記』などに詳しく書かれている。長慶の晩年は、抗争に次ぐ抗争だった。

 長慶の死を早めたのは、前年に子の義興を亡くしたからだといわれている。義興の死後、長慶は甥の義継(重存:十河一存の子)を養子に迎えた。しかし、義興の死には、不審な点があったといわれている。その点に関しては、『続応仁後記』という史料によって、次に説明することにしよう。

 義興は優れた才覚を持っていたので、のちに梟雄と称された松永久秀の悪事を見抜いており、長慶に久秀を討つよう献言していた。しかし、久秀は悪事の痕跡を残さなかったので、長慶は討とうとしても実行に移すことができなかった。

 それを知った久秀は、先手を打って義興を毒殺したというのである。同じことは、『足利季世記』にも書かれている。とはいえ、久秀が義興を毒殺したというのは、二次史料に書かれたことであり、あくまで噂話の類である。

 もう一つ、長慶を心身の不調に陥れたのは、永禄7年(1564)5月に弟の安宅冬康を居城の飯盛山城(大阪府四条畷市および大東市)で謀殺したことである(自害を命じたとも)。

 久秀は長慶に対して、冬康に逆心があると讒言した。久秀の言葉を信じ、冬康を殺したのである。義興と冬康の相次ぐ死によって、長慶の心身は不調になり、ついに亡くなったと推測されている。

 長慶の死後、跡継ぎの義継はまだ幼かったと考えられている(生年不詳:諸説あり)。そこで重臣の篠原長房らは、長慶の死を3年間伏せることにした(実際は2年間)。

 長慶の死から2年後、義継は長慶が亡くなったことを公表し、葬儀を執り行ったのである。『鹿苑日記』には、長慶が永禄7年(1564)に亡くなっていたとの記述がある。

 久秀が長慶の死に関係したのかと言われると、二次史料にしか記述がなく、たしかとは言い難い。ただ、義興と冬康の死は、大いに長慶を落胆させたはずで、寿命を短くしたのは疑いないのではないか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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