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戦国時代の合戦。戦国大名はいかにして兵糧を準備したのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:アフロ)

 悲しいことだが、今も世界中のどこかで戦争が起こっている。戦争の際、重要なのは兵糧の調達であり、それがうまくいかないと敵に勝つことはできない。戦国大名はいかにして兵糧を準備したのか、以下、考えることにしよう。

 出陣する将兵は、保存が利く腰兵糧を持参していた。これまで、兵糧は将兵の自弁であると考えられてきたが、長期戦の場合は自弁で各自がたくさんの兵糧を準備ができたのかという疑問が残る。つまり、腰兵糧とは当座をしのぐにすぎず、実際には大名側が用意したと考えるべきだろう。

 永禄7年(1564)1月、国府台(千葉県市川市)で北条氏康と里見義弘が戦い、北条氏が勝利した。この戦いでは、兵糧に絡む問題が生じていた。以下、少し経緯を確認しておこう。

 里見氏は岩付(さいたま市岩槻区)に本拠を持つ太田資正、江戸(東京都千代田区)の太田康資と協力し、北条氏に対抗しようとしていた。そこで同年1月、北条氏は家臣の西原氏と秩父氏に書状を送り、出陣の準備を命じたのである(「西原文書」)。以下、氏康の書状の内容を確認しておこう。

 里見氏は5・6百騎で市川(千葉県市川市)に陣を取り、岩付(さいたま市岩槻区)に兵糧を送った。しかし、「ねたん(値段)問答」があり、「指攄」しているという。

 値段問答とは、里見氏が商人と兵糧の値段を交渉していることだ。「指攄」は「ことがなかなか進まないこと」と解され、価格交渉が円滑に進んでいないことを意味する。つまり、里見氏は商人から兵糧を買い取り、岩付に送ろうとしたが、うまくいかなかったのである。

 そこで、北条氏はこの機会に里見氏を討ち取ろうと考え、江戸衆の高城氏以下に出陣を申し伝えた。そして、西原氏らには、明日の1月5日の昼までに具足で腰兵糧を付け、乗馬で市川に出陣するように命じたのである。

 その続きに「兵粮調えなき候者、当地にて借るべく候」と書かれている。この解釈は「兵糧の準備ができない者については、市川で借りるように」とされている。続けて「もともと3日の予定なので、陣夫は1人も召し連れていない」というのは、短期決戦を考えていたからに違いない。

 つまり、腰兵糧を持参するのは、出陣する者の心構えであった。北条氏は急な出陣要請だったので、持参できない者には、現地で貸すということにしたのだろう。おそらく戦いが長期に及べば、北条氏が兵糧を支給したと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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