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石田三成より悲惨なのは上杉景勝? 関ヶ原合戦で敗北後、禄高が激減した戦国大名ランキングTOP10

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岡山城。関ヶ原合戦後、岡山城主の宇喜多秀家は、無念にも八丈島に流された。(提供:MeijiShowa/アフロ)

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で東軍の徳川家康に従った戦国大名は、大幅に禄高が増えた。詳細はこちら。一方、西軍に与した結果、敗北して禄高が激減した戦国大名がいたのも事実である。今回は、禄高が減った戦国大名のTOP10を確認しよう。

第10位 毛利秀元〔改易〕 周防山口(20.0万石)→なし【―15.0万石】

 秀元は輝元の養子だったが、輝元に実子が誕生したので、跡継ぎを辞退した。関ヶ原合戦では南宮山に布陣したが、この時点で輝元が徳川家康と和睦をしていたので、軍勢を動かすことがなかった。戦後、輝元らと同じく本領を安堵される予定だったが、西軍における反家康の行動が露見して減封となった。

 ※秀元は5.0万石で毛利輝元の所領に分知された。

第9位 石田三成〔改易〕 近江佐和山(19.4万石)→なし【―19.4万石】

 関ヶ原合戦後、敗北した三成は逃亡して再起を期したが、田中吉政に捕縛された。三成は西軍の首謀者だったので、重罪を逃れることができず、六条河原で処刑された。もちろん、所領は没収された。居城の佐和山城(滋賀県彦根市)は、東軍の軍勢に攻められて落城した。

第7位 増田長盛〔改易〕 大和郡山(20.0万石)→なし【―20.0万石】

 長盛は五奉行の一人で、もとは徳川家康の与党だった。関ヶ原合戦では西軍に属して戦ったが、敗北。戦後、首謀者の一人だった長盛は改易となり、高野山(和歌山県高野町)への逼塞を命じられた。慶長19年(1614)に大坂の陣がはじまると、子の盛次が豊臣方に与して敗北。結果、長盛も連座により自害を命じられた。

第7位 小西行長〔改易〕 肥後宇土(20.0万石)→なし【―20.0万石】

 西軍に属した行長は、敗北後すぐに逃亡したが、あえなく捕縛された。行長は首謀者だったので、改易となった。その後、市中引き回しのうえ、石田三成・安国寺恵瓊と共に六条河原で斬首となった。ただ、行長はキリシタンだったので、その遺骸は教会に引き取られ、カトリック式で葬儀が執り行われたという。

第6位 青木一矩〔改易〕 越前北庄(21.0万石)→なし【―21.0万石】

 関ヶ原合戦では西軍に属し、東軍で加賀の前田利長を牽制した。しかし、一矩は病がちで体調が悪く、戦後の10月1日に亡くなった。異説として、一矩は東軍に属しており、戦後、病死したので改易となったという説もあるが、西軍に属して処分されたと見るのが有力である。

第5位 長宗我部盛親〔改易〕 土佐浦戸(22.2万石)→なし【―22.2万石】

 盛親も西軍の主要メンバーだったが、処刑を免れて改易となった。戦後、大名への復帰を目指して京都市中で寺子屋を開き、徳川家康への面会を希望したが、ついに叶わなかった。慶長19年(1614)の大坂の陣では、豊臣方に与して敗北。捕縛されて、六条河原で斬首となった

第4位 佐竹義宣〔減封〕 常陸水戸(54.5万石)→出羽久保田(20.5万石)【―34.0万石】

 義宣はいちおう西軍に属したとされるが、終始あいまいな態度だった。戦後、しばらくは本領の常陸水戸を支配していたが、慶長7年(1602)に突如として出羽久保田行きを命じられた。突然、減封された理由については諸説あるが、未だに確定していない。

第3位 宇喜多秀家〔改易〕 備前岡山(57.4万石)→なし【―57.4万石】

 西軍の首謀者だった秀家は、戦後すぐに逃亡して、薩摩島津氏を頼った。当然、改易である。しかし、慶長8年(1603)に家康のもとに送られ、その3年後に八丈島に流罪となった。その後、秀家は帰郷を希望しながらも実現せず、明暦元年(1655)に八丈島で亡くなった。

第2位 毛利輝元〔減封〕 安芸広島(112.0万石)→長門萩(29.8万石)【―82.2万石】

 輝元は西軍の首謀者だったが、関ヶ原合戦の前日に家康と和睦を結び、本領を安堵された。ところが戦後、輝元の反家康の行動が次々と明らかになり、最終的に長門萩29.8万石に減封された。なお、吉川広家が自身の恩賞を辞退し、毛利宗家の存続を願ったというが、今では誤りとされている。

第1位 上杉景勝〔減封〕 陸奥会津(120.0万石)→出羽米沢(30.0万石)【―90.0万石】

 関ヶ原合戦の原因は景勝だった(徳川家康による会津征伐)。景勝は会津を拠点として東軍勢力と戦うが、西軍の敗北を知って兵を引いた。その後、家康から上洛を促され、謝罪。改易は免れたものの、出羽米沢30.0万石に減封された。

◎まとめ

 西軍で処刑のうえ改易されたのは、もっとも重要な役割を果たした石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人だった。それ以外の改易や減封については、特に明確な基準があるわけではない。家康も処分を誤ると、再び大乱を引き起こしかねなかっただろうから、相手を見ながら慎重に決定したに違いない。

※石高の単位は万石。
※石高の単位は万石。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】 

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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