再開発と伝統の共存が未来をつなぐ。大切な場所と変わらない人の営みが心に沁みる、ある大家族の物語
現在、Bunkamura ル・シネマほか全国公開中の中国映画「春江水暖~しゅんこうすいだん」は、大河、富春江(ふしゅんこう)が流れ、水墨画の傑作「富春山居図」の舞台として知られる中国の杭州市富陽(フーヤン)区が舞台。再開発の進む町で生きる、ある大家族の営みが描かれる。
人の一生と同じで、家族の営みというのも、また順風満帆とはいかない。人生はいいときもあれば、悪いときもある。
家族であるからこそ、力を合わせることもあれば衝突することもある。頼れる存在にもなるが、やっかいな存在にもなる。許せることと、許せないことがある。
良いこともあれば悪いことも、うれしいこともあれば、悲しいこともある日常が繰り返され、積み重なり、やがてそれは家族の歩みとなり思い出となる。
そうした人々の営みひとつひとつが、町を作り、時の流れとともに町の歴史を作っていく。そこには大きな変容もあれば、昔から脈々と受け継がれ変わらないこともある。
そんなありふれた日常とゆっくりと変化する町と時の移ろいを、作品を通して、わたしたちはつぶさにみつめることになる。
そのとき、脳裏に浮かぶことは何か?ある人は、家族との想い出かもしれない。ある人は、亡き人のことこかもしれない。またある人は、生まれ育った場所かもしれない。
本作は、そんな人が自らの現在・過去・未来に思いをはせ、ある種の郷愁の世界へと誘う不思議な力が宿る。
きっかけは再開発で変わりゆく故郷への想い
まず、舞台となる富陽は、手掛けたグー・シャオガン監督の生まれ故郷。ここを作品の舞台に選んだ理由をこう明かす。
「当初は、初めての長編劇映画として、自身の両親が営んでいた料理店の思い出を描こうと考えていました。
ただ、再開発で街が大きく変貌していくことを目のあたりにしたとき、今この瞬間を記録しなければいけない思いに駆られました。
そのことをきっかけに脚本を書き上げていきました」
作品は、家族のドラマを軸にしながら、街の歴史と今の町の姿を刻み、なおかつ未来までを見据えるような物語になっている。
「再開発で街が大きく変わる瞬間を記録しなければならないと考えたのは、かつての町の風景を映像に残しておきたい気持ちがあったから。ただ、僕自身はかつての町の風景が消えゆくことは必ずしも悪いこととは思っていないんです。
再開発というとなにか町が完全に破壊されて、そこで暮らしていた人々が追いやられるようなイメージがあります。確かに20~30年前の再開発は、とにかく完全に街の家やビルを取り壊して、更地にしてからなにかを建てるという、あまり計画性のないものでした。
でも、最近は中国でもちょっと変化してきて、都市計画プランがきちんと作られ、価値のあるものは残し、その土地ならではの町並みに配慮した美学やデザインで実施されている。富陽に関しても町を美しく再生するための再開発と感じています。これは僕だけではなく、町のおおよその住人が思っていることだと思います。
再開発は、街が新たに生まれ変わることでもある。そのことがよりよき未来につながる可能性がある。そうとらえてもいいのではないでしょうか。
また、町が新しくなっても逆に残るものは必ずあります。そこで暮らす人々が育んできたことは、そのことが大切なことであればあるほど、絶やしたくないものであればあるほど、代々受け継がれていきます。
たとえば映画で描かれていることですけど、伝統行事は町がかわってもつながれていきます。
ですから、僕自身はその土地の開発とそれまでの歩みということを、二項対立にして語りたくない気持ちがありました。この映画で探求したかったのは、現代化されているものと伝統の共存であり、伝統的なものを現代にどう残していくかということ。そのことを探究することで、未来について考えたかったのです。
僕自身、今回の創作を通して気づいたのは、伝統というのは決して形式ではないということです。古くからあるもの=伝統ということではない。
中国人に限らず全人類はずっとその先、未来へ進んでいます。日進月歩で、新しい技術が生まれ、将来はAIをこえたサイバーパンクのような世界になるかもしれません。
そういった時流を止めることはできないでしょう。川の流れのように時間も時代も流れをとめることはできない。
その中で、伝統はどういうところに残り宿るのか?
それはやはり人の心の中ではないかと思います。古くから伝わってきたものに対する心を共有できるかどうかが大切ではないかなと。
映画の中に、大木が出てくるんですけれども、その木は何百年も富陽のあの町の同じ場所に生えているものです。それから、この木が生えている山やそばを流れている川も変わらずにそこに存在してきた。ただ、その自然を取り囲む都市に関しては、町が新しくなって新しい家が建ったりしている。でも、山と川は変わらないものとして存在しています。
そういったものを見たとき、過去の何百年も前のことに思いをはせたりするという人の心と視点こそが伝統だと思っています。
たとえば古いお寺にいたとしても、その人がスマホで遊んでいたりSNSに興じたりしていたら、それは伝統を感じていることにはならないのではないでしょうか。
逆に、現代風の家に、古い時代の皿を置き、愛でる。これは伝統を感じている気がします。そうした心はいかなるときも大切にしたい。それこそが受け継がれるべき、伝統ではないでしょうか」
キャストはほとんどが監督の親戚や知人で俳優経験のない素人
作品をみて、驚きを隠せないのが、リアリティあふれるキャスト陣。にわかに信じがたいのだが、キャストはほとんどが監督の親戚や知人で俳優経験のない素人だという。
「出演者を知人や素人にすると決めた理由は大きく2つあります。
1つは単純にこの作品は僕の処女作かつ初めて劇映画で、潤沢な資金があったわけではありません。製作費を抑えなくてはならない。知り合いならば、少ないお金で協力してくれる。そうした台所事情から、彼らにお願いしました。
2つ目の理由はこの映画を撮るにあたって、掲げたテーマのひとつに、その時代や人物、その心模様を映し出す風物詩のような映画にしたいとの思いがありました。
とにかく映画の中では真実、あるがままの風景や人物、人々の営みを記録して残したいという気持ちがあったのです。
たとえば、絵画には、芸術や文化としての価値と、もう1つ、当時の資料としての価値もあると僕は考えています。
同じように、僕は、この映画も芸術や文化としての価値も感じられて、当時の故郷、富陽の光景をみることができる資料としても残したいと思ったのです。
そのためには、そこで実際に暮らして生きている人が最適の出演者といっていいのではないでしょうか。
映画の冒頭、おばあちゃんの誕生日のシーンで、食卓に地元ならではの野生のスズキの料理が運ばれてきて、みんなで味わいます。
そのように、富陽という土地を、ここで慎ましく暮らす人々を、どこかみなさんに愛でていただきながら、味わってもらいたかったのです」
出演を打診された知人や親類の反応は?
とはいえ、監督からの突然の映画出演の打診を知人や親類はどう受け止めたのだろう?
「反応はそれぞれ違いましたね(笑)。
メインキャラクターの4兄弟でいいますと、うち3人は実の親戚のおじさんなんです。なので、その3人に関しては身内ですから説得の末に応じてくれました。
ただ、次男の漁師、ヨウルーを演じてくれたジャン・レンリアンに関しては、親戚ではありません。実際の漁師さんで、交渉はかなり難航しました(苦笑)。
『自分の仕事もあるから忙しいし、映画の出演に興味はないし、やりたくもない』と抵抗され、正直、出演は半ばあきらめかけたときもありました。
ただ、彼は僕の両親がかつて料理店をやっていて、そこに魚を卸していた。なので、僕の母と、当時付き合っていた彼女と女性を味方につけて、彼のところへいって、頼み込んで出演の契約書にサインをしてもらいました。
それでも乗り気ではないので、事あるごとに食事を一緒にしたり、贈り物をしたりして、彼の気持ちを映画につなぎとめました(笑)。
まあ、でも、たぶん内心、『もう出たくない』っていう人はけっこういたと推察します。やはりみなさん、自分の生活とお仕事があった上での映画出演でしたから、僕の方が無理をいっているところがある。だから、たくさん苦労をかけたと思います。
でも、演じてくれたみなさんも、映画が途中でストップしてしまうと、僕たちスタッフががまったく報われないことはわかってくださっていたので、降りると言い出す人はひとりもいなかったです」
大成功を収めたデビュー作は、最初で最後の作品
こうして完成した作品は、カンヌ国際映画祭をはじめ、世界各国の映画祭をめぐり、高い評価を受けた。この成功をいまこう受けとめている。
「これほど世界で高い評価を受けることは予想もしていませんでした。ただ、僕にとっては第一歩を踏み出したに過ぎない。でも、大切なファーストステップであると同時に、こういった作品は最後かもしれないと思っています。終わりの始まりを意味する作品になったと思っています。
現在、長編2作の準備をしているのですが、ガラッと内容も映画のスタイルも一変しようと構想しています。ですので『春江水暖』のような作品はもう撮らない可能性もあるという意味で大切な第一歩であり、最初で最後の作品でもあると感じています」
「春江水暖~しゅんこうすいだん」
監督・脚本 : グー・シャオガン
出演:チエン・ヨウファー、ワン・フォンジュエンほか
Bunkamura ル・シネマほか全国順次公開中
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